第113話 群れの匂いと、別れの遠吠え
戦いの翌朝は、穏やかだった。
負傷者の手当ては夜のうちに終わっていた。獣人の回復力は人間とは桁が違う。昨日の戦闘で負った切り傷が、もう塞がりかけている者もいた。
ラグナが焚き火の前に座っていた。朝の肉を焼きながら、俺の隣に場所を空けた。
無言の招待。俺は座った。
しばらく、二人で肉を焼く音を聞いていた。
「ナギ」
「はい」
「昨日の戦いで、はっきりした。大地の鼓動は、もう俺たちだけでは守れない」
「……ええ」
「群れを大きくする。お前の群れに入る。それは決めた」
ラグナが肉を裏返した。
「だが——問題がある」
「定住化、ですか」
ラグナの耳がぴくりと動いた。
「若い奴らが、定住したがっている。巡回ルートの魔素が薄くなって、移動するたびに体が弱る。定住すれば、安定する」
「でも」
「走ることをやめたら、獣人は獣人でなくなる」
俺は少し考えた。これは心の問題ではない。社会の問題だ。
「ラグナ。どちらかを選ばなくていい方法が、あるかもしれません」
フランを呼んだ。
フランが来て、半定住型の集落設計を語った。拠点を持ちつつ巡回も続ける。翠嶺の図書館で学んだエルフの魔素循環技術を、小規模化して拠点周辺に適用する。
「定住か遊牧かではなく——帰る場所を持ちながら、走り続ける」
ラグナの目が見開かれた。
「……巣だ。狼は巣を持つ。だが巣にこもるわけじゃない。巣から出て、狩りをして、巣に帰る。当たり前のことだ」
ラグナが歯を見せて笑った。
「巣を作る。そこから走る。……いい。群れは割れない」
フランが即座にノートを取り出し、設計図を描き始めた。俺は場を作っただけだ。それでいい。
*
昼。焚き火の周りで、肉を焼きながら休んでいた。
ラグナが、不意に俺を見た。
「ナギ。一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は、誰と番なんだ」
肉を落としかけた。
「……は」
「群れの長は番を持つのが普通だ。お前の群れには雌が何人もいるが、どいつがお前の番だ」
焚き火の向こうで、リゼが立ち上がった。
「あたし」
即答だった。
「あたしが一番最初からナギの隣にいる。距離も一番近い。匂いだって一番混じってるはず。だから、あたしが番」
「おい待て」
ディアブラが腕を解いた。
「私は魔王だ。格で言えばこの群れで最も高い。番は群れの中で最も強い雌が務めるべきだろう。——つまり、私だ」
「ディアブラ様、戦闘力と番は関係ないでしょ」
「獣人の群れでは関係あるだろう。なあ、ラグナ」
ラグナが頷いた。
「強い雌が番になるのは自然なことだ」
「ほら見ろ」
「ちょっと!」
フランが眼鏡を押し上げた。
「感情論で争っても結論は出ないわ。客観的データで判断すべきよ。ナギと最も長い時間を共有し、最も多くの危機を共に乗り越え、最も高い相互理解度を持つ相手——つまり、データ上は私が最適解ね」
「フラン、データで番を決めるな」
「非合理的な選定方法よりましよ」
ルゥがひょっこり飛び出した。
「ルゥもお兄さんの番がいい! ルゥはいっつもお兄さんにくっついてるし、お兄さんの匂い一番好きだもん!」
ルナに切り替わった。
「匂いの好みで番を決めるのは、むしろ獣人の基準に近いわね。その点ではルゥの主張にも一理ある」
「るーな! 味方してくれるの!?」
「事実を述べただけよ。……ただし、私もナギの番の候補から外れるつもりはないわ」
「るーなも!?」
四方から主張が飛び交い、焚き火の周りが戦場より騒がしくなった時だった。
俺の荷物の中で、水晶球が光った。
誰かが蹴った荷物の衝撃で、通信が繋がってしまったらしい。
「——聞こえておりましたわ」
セラフィーナの声だった。
聖母の微笑みが、声だけで伝わってきた。
「番の選定ですの? それでしたら、利子の関係上、最も深い絆で結ばれているのは私かと存じますわ。なにしろ、ナギ様には返済不能なほどの貸しがございますもの」
「セラフィーナさん!? なんで聞こえて——」
「先生ーっ!!」
アリスの声が割り込んだ。
「番はフリルを理解する人じゃないとダメです! 先生のポケットにアリスちゃんの護符が入ってるんですから、もう実質——」
「何でもないです!」
「実質番です!」
水晶球の向こうで、もう一つの声がした。小さいが、はっきりとした声。
「……ナギ様の心拍数と呼吸パターンの変動を分析すれば、最も感情的反応を引き起こす対象が特定できます。データは王立学院の計測器で取得可能です。私が論文にまとめます」
「ソフィアさん、番を論文にしないでください」
「学術的に有意義なデータです」
焚き火の周りの四人と、水晶球の向こうの三人。
合計七人の主張が、同時に飛び交った。
ラグナが腕を組んで見ていた。耳が左右にせわしなく動いている。
「……お前の群れは、離れていても争うのか」
「争います」
「しかも、遠くから声だけで参戦してくるのか」
「します」
「普通は長が決める。『お前が番だ』と指名すれば済む話だ」
「それをやったら、指名されなかった方に殺されます」
「殺されるのか」
「比喩ではなく、物理的に」
ラグナが七人を見回した——水晶球の向こうも含めて。全員の目が、あるいは声が、本気だった。
「……なるほど。お前の群れの雌は、全員、戦士だな」
「そうです」
「同情する。心から」
「心から」が追加されていた。
同情が一番つらかった。
ラグナがもう一切れ肉を焼き、何事もなかったように食べ始めた。獣人にとって番の話は天気の話と同じくらい日常的な話題らしい。俺の周囲は——距離を越えて——まだ戦争状態だった。
*
夕方。集落の外れで、ディアブラとラグナが並んで座っていた。
二人とも腕を組み、草原を見つめている。寡黙な者同士、言葉は少ない。
俺は遠くから見ていた。盗み聞きではない。経過観察だ。たぶん。
ラグナが、ぽつりと言った。
「お前も、一人で全部背負ってきたか」
「……まあな」
「馬鹿な奴だ」
「お前に言われたくない」
短い沈黙。
「あの銀の牙——リゼと言ったか。お前の群れの前衛。いい戦士だ」
「私の群れではない。ナギの群れだ」
「お前も群れの一員だろう」
「……別に。成り行きでついてきただけだ」
ディアブラの耳が赤くなっているのが、離れていてもわかった。
ラグナが鼻を鳴らした。匂いで嘘を見抜くのだろう。だが、何も言わなかった。
*
夜。水晶球が鳴った。フェンリルだった。
「最終報告だ。ドワーフ連合との基本合意が成立した」
「まとまったんですか」
「優先採掘権22%、商会流通網の全面開放、魔素安定供給の共同研究への参加。三本柱で合意。鍛冶ギルド長ドルグが調印の席で言った言葉を伝えておく。『金勘定のできる狼は嫌いじゃない』」
「褒められてますね」
「最高の褒め言葉だ。——正式調印は全種族会議で行う。そちらは」
「獣人と合意しました。ラグナ族長が、群れに入ると」
「条約書は」
「ありません。額を押し当てられました」
フェンリルが三秒ほど黙った。
「……非合理的だが、それでいい。信頼がある方が、紙より強い」
「フェンリルさん。ありがとうございました」
「当然だ。請求書を送る。——ナギ」
「はい」
「全種族の合意が揃った。次は、全種族会議だ。準備しておけ」
通信が切れた。
*
出発の朝。
集落の全員が、外に出ていた。
ラグナが俺の前に立った。
「次に会う時は、全種族会議だな」
「はい」
「それと——番の件、決めたら教えろ。群れの長が番を持たないのは、群れ全体の不安材料だ」
「その話はもういいです」
「よくないぞ。群れの安定に関わる」
後ろでリゼが「もういいから!」と叫び、フランが「いえ、議論の余地は——」と続け、ディアブラが「黙れ、全員」と遮っていた。
ラグナがリゼに目を向けた。
「銀の牙。また一緒に走れ」
「うん。絶対」
リゼが笑った。この草原で見た中で、一番嬉しそうな笑顔だった。
ガルドが俺の前に来た。何も言わなかった。肩を、二度、叩いた。「ありがとう」と「また会おう」。
馬車に乗り込んだ。
遠吠えが始まった。
ラグナの声。低く、長く、草原の端まで届く。ガルドの声。若い戦士たち。子供たち。
集落全体が、遠吠えで見送っている。
ルゥが馬車の窓から身を乗り出した。
「あおーーーーん!!」
涙を流しながら、全力の遠吠え。
ルナに切り替わった。
「……恥ずかしい」
小さく呟いた。だが、唇を噛んで——
「……あおん」
小さな、小さな遠吠え。確かに——吠えた。
馬車が走り出した。遠吠えが遠くなっていく。
俺はポケットに手を入れた。胃薬とフリルの護符。
水晶球が鳴った。セラフィーナだった。
「ナギ様」
声が——いつもと違った。利子の冗談がない。
「緊急です。ガレリウス猊下が動きました。教書が——予定より早く、明日発布されます」
「セラフィーナさん。大丈夫ですか」
「大丈夫ですわ。私は、私の戦線で戦います。——ただ、少し……時間が、足りません」
通信が切れた。
リゼが俺を見た。
「ナギ」
「……急ぎます。全種族会議の準備を」
草原の向こうに、王都の方角がある。嵐が、近づいていた。




