第112話 大地の叫びと、五種族の狩り
三日目の朝は、遠吠えで始まった。
だが、いつもの朝の遠吠えではなかった。
短く、鋭く、三度。
警報だった。
天幕を飛び出すと、集落が騒然としていた。獣人の戦士たちが武器を手に走り回っている。子供たちが長老に連れられて中央の天幕に集められていく。
ラグナが集落の東端に立ち、草原の彼方を見つめていた。
「ラグナ。何があっ――」
「大地の臍だ」
ラグナの声が低い。
「聖地に、群れが来ている。暴れた獣の群れだ。十——いや、二十を超えている」
大地の臍。獣人にとって最も重要な魔脈点。
「最近おかしくなっている獣が、度を越してきた。大地の鼓動が弱まっているせいだ。一匹二匹ならいつものことだが、二十を超える群れは——初めてだ」
ラグナが振り返った。
「全部族に召集をかけた。だが、間に合うかわからない」
俺は、仲間を見た。
リゼが剣を手に立っていた。目が、すでに戦場のそれになっている。
ディアブラが腕を組み、草原の東を見つめていた。角が朝日を受けて鈍く光る。
フランが計測器を手に、魔素の流れを読んでいた。ルナが索敵態勢に入っている。
「ラグナ」
「何だ」
「一緒に戦わせてください」
ラグナが俺を見た。
三日間、一緒に走り、一緒に狩り、一緒に食い、一緒に眠った。走れない男。だが群れの目をやり、仲間を救った男。
「……来い」
一言だった。
*
大地の臍は、集落から東に一時間ほど走った場所にあった。
俺は走れない。フランも。
ラグナが口笛を吹くと、大型の狼が二頭、走ってきた。
「乗れ。走れない奴は、狼に乗る」
狼の背中にしがみつきながら、草原を疾走した。胃が揺れた。胃薬が欲しかった。
大地の臍に着いた。
広大な窪地。中央に、地面から蒼い光が薄く漏れている。魔脈点だ。
そして——その周囲に、黒い影が蠢いていた。
暴走魔物の群れ。
巨大な猪。変異した狼。六本足の蜥蜴。翼の生えた蛇。大小さまざまな魔物が、魔脈点に引き寄せられるように集まっている。二十どころではない。三十を超えていた。
魔脈の損傷箇所から魔素が漏出し、それを浴びた獣たちが暴走的に変異している。
「ナギ」
フランが狼の背中で計測器を見つめていた。
「魔素の漏出量が異常よ。損傷が拡大している。このまま放置すれば、魔脈点が完全に崩壊する」
「崩壊したら」
「この一帯の魔素供給が断たれる。草は枯れ、水は涸れ、獣人の巡回ルートが一つ死ぬ」
ラグナの耳がぴくりと動いた。言葉の意味を、本能で理解した。
「聖地を、守る」
ラグナが全戦士を見回した。
獣人の戦士が四十名。ナギの一行が五名。
足りるか、ではない。足りなくてもやるしかない。
「陣形を組む。——ナギ。お前は」
「丘はない。どこに立てばいい」
ラグナが窪地の縁の岩場を指差した。視界が開け、全体が見渡せる。
「そこだ。群れの目。頼むぞ」
「分かった」
初めて、ラグナに敬語を使わなかった。
戦場では、対等だ。
*
戦いが始まった。
ラグナとリゼが先陣を切った。
二人の跳躍が同時だった。ラグナが左、リゼが右。巨大猪の両脇から同時に斬り込み、交差する。
獣人の戦士たちが声を上げた。歓声ではない。戦場の遠吠え。気合いと連携の確認が、声に乗っている。
俺は岩場の上で全体を見ていた。
三十を超える魔物の群れ。獣人の戦士たちが五つの小隊に分かれて包囲を試みている。だが数が多い。包囲が崩れかけている箇所がある。
左翼。若い戦士たちの小隊が、六本足の蜥蜴三体に押されている。
右手を上げた。**左翼、後退**。
同時に、フランに叫んだ。
「フラン! 左翼の蜥蜴の動きのパターンは!」
「六本足は左旋回が苦手よ! 右から回り込めば死角が取れる!」
フランの分析を、俺の信号に変換する。左手で円を描き、右に振る。『右旋回で包囲』。
左翼の戦士たちが信号を受けた。蜥蜴の右側に回り込む。死角を突く。一体が倒れた。
中央。魔物の群れが魔脈点に向かって突進している。獣人の前衛だけでは止めきれない。
「ディアブラ!」
「見えている!」
ディアブラが両手を掲げた。
黒紫の魔力が、弧を描いて空を走った。
魔物の群れの中央に着弾。爆発。群れが二つに分断された。
獣人の戦士たちが一瞬驚き——だがすぐに動いた。分断された群れを、それぞれ包囲する。結果で判断する文化が、ここで生きた。
ルナが岩場の下から声を上げた。
「風が南南東に変わった! 魔物の嗅覚が乱れる!」
風向きの変化を信号に変換。全小隊に伝達。風上に回り込む陣形変更。
人間、魔族、獣人の動きが——一つに繋がった。
リゼとラグナが、群れの中で最大の魔物——変異した巨大狼と対峙していた。
銀の牙と、銀牙の長。
二人の剣と槍が、同時に振り下ろされた。
巨大狼が崩れ落ちた。
地面が震えた。
一体、また一体と、魔物が倒れていく。
最後の一体が息絶えた時、草原に静けさが戻った。
遠吠えが上がった。勝利の遠吠え。
だが、ラグナは吠えなかった。
*
ラグナが、魔脈点の中央に歩いていった。
地面に片膝をつき、手のひらを大地に当てた。
長い沈黙。
「……弱い」
掠れた声だった。
「大地の鼓動が弱い。こんなに弱いのは、生まれて初めてだ」
俺は岩場を降り、ラグナの隣に歩いた。
何も言わなかった。
ただ、ラグナの手の隣に、自分の手を置いた。大地に触れた。
冷たかった。
魔脈点のはずなのに、温かさがない。脈動はあるが、弱く、途切れ途切れだった。
「この鼓動が弱まっている理由を、俺たちは知っています」
「……」
「五百年前の戦争で、魔脈が傷ついた。その傷が、ずっと広がり続けている。止める方法を、探しています」
「止められるのか」
「一つの群れだけでは、無理です」
ラグナが俺を見た。
「全種族の力を合わせて、魔脈を修復する必要がある。人間も、魔族も、エルフも、ドワーフも、獣人も。全部の群れが、一つになって初めて——大地の鼓動を、取り戻せる」
長い沈黙が落ちた。
風が吹いた。草が波打った。
ラグナが手を地面から離し、立ち上がった。
「お前は、走れない」
「はい」
「弱い」
「はい」
「だが——群れを、一つにできる」
ラグナが、俺の目を見た。
「三日間、一緒に走った。一緒に狩った。一緒に食った。お前がどんな奴か——もう、わかった」
ラグナが一歩、近づいた。
「お前の群れに入る」
条約ではなかった。調印式もなかった。
ラグナが額を、俺の額に押し当てた。
硬い額だった。獣人の骨格は人間より厚い。その額の向こうに、体温があった。
獣人の最高の信頼の証。
「群れの匂いが、した。最初に会った日から」
ラグナが離れた。
「だが、確かめなければならなかった。匂いだけでは足りない。一緒に走って、一緒に狩って、一緒に生き延びて——初めて、群れだ」
周囲の獣人たちが、遠吠えを上げた。
今度は勝利の遠吠えではなかった。
歓迎の遠吠え。
新しい仲間を迎える声。
リゼが俺の隣に来た。汗と泥と血にまみれて、笑っていた。
「ナギ。走ってないのに、また全身汗だくだね」
「走る以外にもエネルギーを消費する方法はあります」
「うん。知ってる」
ルゥが飛びついてきた。
「お兄さん! ルゥたちも群れの仲間?」
「そうです」
「やったー! ルゥ、遠吠えする!」
「あおーーーーん!」
獣人の子供たちが、ルゥの遠吠えに応えた。
フランが眼鏡を拭きながら呟いた。
「非合理的な信頼構築……だけれど、効果は認めるわ」
ディアブラが腕を組み、黙って遠吠えを聞いていた。口元が緩んでいた。
四つの種族が、一つの草原に立っていた。
大地の鼓動は、まだ弱い。
だが——群れは、大きくなった。




