第111話 導きの父と、空っぽの祈り
ガレリウス枢機卿は、微笑んでいた。
セラフィーナは応接間の椅子に座り、その微笑みを受け止めていた。
五十代。銀髪を後ろに撫でつけ、清潔な白い法衣を纏っている。顔立ちは端正で、目元に刻まれた皺が知性と慈愛を演出している。声は低く、温かく、聞く者の心を自然と開かせる響きを持っていた。
理想的な聖職者の姿。
セラフィーナは、この人の声に導かれ、自分を空っぽにしていった。
「おかえりなさい、セラフィーナ」
「ただいま戻りました、猊下」
「長い旅でしたね。お疲れでしょう。お茶を淹れさせましたよ」
香草茶が運ばれてきた。大聖堂特製の、信徒に振る舞う茶。セラフィーナも若い頃、何度もこの茶を飲んだ。
「さて」
ガレリウスが茶器を両手で包み、セラフィーナを見つめた。
「旅のお話を聞かせてくれますか。和平プロジェクト、でしたね。あなたの目で見た現場の話を」
穏やかな問いかけだった。興味深そうに、身を乗り出して。
ナギ様と同じだ、とセラフィーナは思った。
相手の話に関心を示し、共感の姿勢を見せ、語りやすい空気を作る。カウンセリングの基本中の基本。
「エルフ王国を訪問しました。千年の停滞の中で、世界樹の根が衰弱しています。原因は魔脈の枯渇です」
「なんと。世界樹が」
ガレリウスの眉が、ほんのわずかに寄った。心配そうに。
「それは深刻ですね。エルフの民のことを思うと、胸が痛みます」
共感。完璧な共感。
だが、セラフィーナは見ていた。
眉が寄ったのは〇.三秒遅かった。本当に驚いた人間の反応より、ほんのわずかに遅い。表情を「作った」のだ。
ナギ様なら気づく。でも、普通の人間には気づけない。
「魔脈の枯渇。つまり、全種族が協力しなければ解決できない、と」
「はい」
「なるほど。あなたは、それを見て、和平が必要だと確信されたのですね」
「はい」
「素晴らしい。あなたの目で確かめた真実は、何よりも重い」
ガレリウスが頷いた。深く、ゆっくりと。
「ですが、セラフィーナ」
声のトーンが、わずかに変わった。
温かさは変わらない。だが、方向が変わった。
「一つ考えてみてください。魔脈の枯渇が事実だとして——それは、女神の御心かもしれません」
「……女神の御心」
「女神は、試練を通じて民を導かれます。魔脈の枯渇もまた、試練の一つかもしれない。人の手で解決しようとすることが、かえって女神の計画を乱すことにはならないでしょうか」
穏やかな声だった。
脅しではない。命令でもない。「考えてみてください」という提案の形をしている。
だが、その提案は——思考の方向を、一つに絞る。「女神の計画を乱してはいけない」という前提を、無意識に植え付ける。
共感→受容→方向付け。
ナギ様の技法と同じ構造。だが、ナギ様は最後のステップで相手に選択を委ねる。
この人は——選択肢を、一つだけ残して、他を閉じる。
「貴重なご助言をいただき、感謝いたします」
セラフィーナは微笑んだ。聖母の微笑み。
中身のない返答。肯定も否定もしない。ガレリウスの方向付けを、受け取ったふりをして、流した。
ガレリウスの目が、一瞬だけ細くなった。
気づいている。セラフィーナが流したことに。
だが、追及しなかった。
微笑みを深くし、茶を一口飲んだ。
「ゆっくりお考えください。再審査までまだ時間があります。何か迷うことがあれば、いつでも私のところにいらっしゃい」
いつでも来い。
それは——鎖を繋ぎ直す招待だった。
*
応接間を出ると、回廊に若い聖職者が三人、壁際に立っていた。ガレリウスとの面会を待っているらしい。
「猊下のお導きをいただかなければ、明日の説教の内容が決められないのです」
一人が隣の者に囁いていた。
「私もです。猊下に相談しないと、何を祈ればいいかわからなくて」
セラフィーナは、足を止めなかった。
だが、胸の中で、冷たいものが走った。
自分で祈ることを忘れた聖職者たち。自分で考えることを手放した信仰者たち。
かつての自分と、同じ顔。
何人いるのだろう。この大聖堂の中に、こうして判断力を奪われた者が。
セラフィーナは数え始めることにした。まず、知ることから。
*
夜。セラフィーナの私室に、レティシアが来た。
鎧を脱いだレティシアは、意外なほど華奢だった。短く刈った銀髪の下の顔は、まだ若い。二十代半ば。
「お呼びいただいたので」
「座ってください。お茶を淹れますわ」
セラフィーナが自分で茶を淹れた。大聖堂の香草茶ではなく、翠嶺で分けてもらったエルフの茶葉。
レティシアが一口飲んで、目を丸くした。
「……美味しい。飲んだことのない味です」
「エルフの国のお茶ですわ。千年間、同じ製法で作られているそうです」
「千年」
「ええ。千年間、何も変わらなかった国。……でも、変わり始めましたの」
レティシアが、茶器を両手で包んだ。
「セラフィーナ様」
「はい」
「今日、猊下とお話しされましたね」
「ええ」
「猊下は——何を仰いましたか」
セラフィーナは少し考えた。
「『考えてみてください』と仰いましたわ」
「それは……猊下の、いつもの言い方です」
レティシアの声が小さくなった。
「『考えてみてください』。私もいつも、そう言われます。でも——考えた結果は、いつも猊下と同じ答えになるのです。違う答えが出ると、不安になって、もう一度相談に行ってしまう」
「レティシア」
セラフィーナが茶器を置いた。
「あなたは今、自分の言葉で、自分の状態を語りましたわ」
「え」
「『考えた結果がいつも同じ答えになる』『違う答えが出ると不安になる』。それは——ご自分で気づいているということです」
レティシアが目を見開いた。
「気づいている人は、変われます。気づいていない人は、変われない。あなたは——もう、気づいていますわ」
レティシアの目が、潤んだ。
「でも——怖いのです。猊下のお言葉なしに判断するのが」
「怖くて当然ですわ。長い間、そうしてこられたのですから」
セラフィーナは、微笑んだ。聖母の微笑みではなく、同じ道を歩いた者の微笑み。
「私も、同じでした。自分の声を取り戻すのに、長い時間がかかりました。一人では無理でした。誰かが——扉の前に、立ってくれたから」
「扉の前に」
「ええ。開けるのは自分。でも、扉の前に立ってくれる人がいると、開ける勇気が出るのです」
レティシアが、しばらく黙っていた。
茶器の中で、エルフの茶葉がゆっくりと沈んでいく。
「……私の前に、立ってくださいますか」
「もちろんですわ」
セラフィーナは内心で思った。
一人目。
この大聖堂の中で、最初の一人。
ここから始める。
*
翌朝。アリスが朝食の席で報告した。
「教団内の勇者信仰派と接触しました。七名。和平に反対していないグループです。猊下の強硬派とは距離を置いていますが、表立っては動けないでいるそうです」
「七名」
「少ないですが、要所にいます。大聖堂の書庫管理官、会計院の次席、地方教区の連絡官——情報の流れを押さえられる位置です」
アリスがパンにバターを塗りながら、さらりと言った。フリルのドレスの下で、政治が動いている。
「セラフィーナ様。あと一つ」
「何ですか」
「猊下が、教書を準備しているそうです。『和平は神の摂理に反する』という内容の」
セラフィーナの手が止まった。
「いつ発布されますか」
「再審査の前。おそらく、来週中に」
来週。
教書が出れば、和平反対が教団の公式見解になる。そうなれば、セラフィーナの再審査は形式的なものになる。結論は最初から決まっている。
時間がない。
「アリス」
「はい」
「教書が出る前に、手を打ちます。勇者信仰派の七名と、明日、お会いできますか」
「お任せください。フリルの外交力で」
「……頼りにしていますわ」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
嵐が近づいている。
だが——一人ではない。




