第110話 群れの狩りと、走れない長の役割
朝。ラグナが地面に棒で図を描いた。
獲物の予想位置。包囲の陣形。退路。風向き。
言葉は最小限だった。指で図を示し、各自の位置を指差し、目で確認する。全員が頷く。
「お前」
ラグナが俺を見た。
「あの丘に立て。群れの全体が見える。昨日の目で、全員を見ろ」
集落の東にある小丘。高さは十メートルほど。視界が開け、狩り場の全体を見下ろせる。
「異変に気づいたら、信号を出せ。お前、昨日覚えたな」
「基本信号は覚えました」
「なら十分だ。走れない奴は、見る。群れの目は、群れの命だ」
重い言葉だった。軽い役割ではないと、目が言っていた。
「リゼ」
ラグナがリゼを見た。
「前に来い。俺の隣で走る」
リゼの目が光った。族長の隣——先陣。最も危険で、最も信頼された位置。
「ディアブラ」
「何だ」
「お前の角の力——昨日見た。遠くから撃てるな」
「撃てる」
「中衛につけ。前衛が崩れた時、撃て」
ディアブラが頷いた。魔王の火力を、族長が即座に戦術に組み込んでいる。獣人の指揮官としての判断の速さに、俺は舌を巻いた。
フランは俺と同じ丘。後方分析班。
「ナギ。私が信号のパターンを整理するから、あなたは現場を読んで」
「了解です」
ルナが丘の手前で、風の匂いを嗅いでいた。
「風は南から。獲物の匂いが混じっているわ。……変化があれば、伝える」
盗賊の鼻と、獣人の領域で研ぎ澄まされた感覚が、天然の風向計になっていた。
*
狩りが始まった。
丘の上から、全体が見える。
獲物は——巨大な猪だった。通常の三倍はある。牙が異常に発達し、目が赤く濁っている。魔脈の損傷箇所から漏出した魔素を浴び、暴走的に変異した魔物。
ラグナの前衛が、草原を低く走る。獣人の戦士八名。先頭にラグナとリゼ。
左翼が展開。右翼が回り込む。
信号が飛ぶ。
ラグナの右耳が立った——包囲開始。左翼の二人が尻尾を振った——位置についた。右翼のリーダーが視線を獲物の背後に移した——挟撃準備完了。
俺の目が、全てを読んでいた。
丘の上で、風を感じながら、十六の身体を同時に見ている。
「左翼、包囲完了。右翼、あと三十歩で挟撃位置」
フランが隣で記録する。ルナが風を読む。
「風が変わった。南から東に回り始めている。獲物がこちらの匂いに気づくわ」
「ラグナに伝える。風向き変化の信号は——」
「鼻を二度触る。昨日の夕方の狩りで見たわ」
俺は丘の上で、鼻を二度触った。
二百メートル先のラグナの耳が、ぴくりと動いた。見ている。こちらの信号を、受け取った。
ラグナが即座に陣形を変えた。風下に回り込む。
包囲が完成した。
ラグナが跳んだ。
獣人の族長の跳躍は、人間の動きではなかった。地面を蹴る音すらなく、草の上を滑るように飛び、獲物の首筋に迫る。
リゼが反対側から同時に斬り込んだ。
Aランクの剣が閃いた。
巨大猪が咆哮した。大地が揺れた。
だが——獲物が暴れた瞬間、異変が起きた。
赤く濁った目が、さらに赤く燃え上がった。魔素の暴走。獲物が包囲を無視して突進を始めた。
右翼に向かっている。
右翼の若い戦士——昨夜、焚き火でディアブラの角を褒めていた青年——が、正面に立っている。獲物の突進の軌道上。
彼は気づいていない。獲物の首に意識を集中していて、足元の方向転換を見ていない。
俺は見えた。
丘の上から、全体が見えた。
両腕を大きく左に振った。【全体撤退の信号】
同時に、右手だけを上げた。【右翼、後退】
獣人の信号は、音声より速い。
右翼の戦士たちの耳が動いた。信号を受けた。だが青年だけが——まだ前を向いている。
隣の戦士が、青年の肩を叩いた。身体で「下がれ」と伝えた。
青年が半歩退いた瞬間、巨大猪の牙が、彼のいた場所を抉った。
土煙。草が飛ぶ。
間一髪だった。
「ディアブラ!」
俺は叫んだ。これだけは声だ。距離がある。
「正面! 今!」
ディアブラが中衛から手をかざした。
黒紫の魔力弾が、巨大猪の側面を直撃した。
猪がよろめいた。
その隙を、ラグナが逃さなかった。
跳躍。回転。牙の根元に短槍を突き立てる。
リゼが反対側から、同時に斬り上げた。
巨大猪が、膝を折った。
地面が震えた。
静寂。
それから——遠吠えが上がった。
勝利の遠吠え。
狩りは成功した。
*
丘を降りた。
右翼の青年が、俺の前に来た。
何も言わなかった。
俺の肩を、一度だけ、強く叩いた。
それだけだった。だが——目が、全てを語っていた。
お前の目が、俺を救った。
言葉はなかった。言葉は要らなかった。
肩を叩く、その一打が——獣人の「ありがとう」だった。
ラグナが獲物の前に立ち、集団を見回した。
「よくやった」
短い労いだった。
そして俺を見た。
「お前。走れないくせに、群れの目をやった。信号も正確だった」
「……」
「右翼のガルドが死ぬところだった。お前の信号がなければ、今夜の焚き火は一人減っていた」
ガルド——あの青年が、俺を見た。尻尾が一度だけ振れた。
「お前は弱い。だが——群れの目として、認める」
ラグナが、俺に背を向けた。
それが、獣人の承認だった。
握手もない。称号もない。ただ「認める」の一言。
だが、その一言の重さは——エレノアの涙や、リヒャルトの決断と、同じだった。
リゼが俺の隣に来た。汗まみれで、草だらけで、少し血がついていた。
「ナギ。すごかった」
「走ってないのに全身汗だくです」
「たまにはこういうのもいいんじゃゃない?」
リゼが笑った。
獣人の戦士たちが、リゼの隣を通る時、拳を軽く突き出した。リゼが同じように拳を返す。
「銀の牙」
一人が呟いた。
「え?」
「お前の剣。銀色で、速い。銀の牙だ」
リゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「……かっこいい名前」
「かっこいいかは知らん。事実だ」
獣人は事実しか言わない。だからこそ、その言葉は重かった。
*
夕方。水晶球が鳴った。フェンリルだった。
「第二ラウンド終了。優先採掘権を22%に圧縮した。代わりに商会の流通網をドワーフ製品に全面開放する。鍛冶ギルド長ドルグの反応は——」
「どうでした」
「『お前、話のわかる狼だな』だと。褒め言葉と受け取った」
「まとまりそうですか」
「基本合意は近い。正式調印は全種族会議で行う。……そっちは」
「今日、狩りをしました。群れの目をやりました」
「群れの目?」
「丘の上から全体を見て、信号を出す役割です」
フェンリルが、少し黙った。
「……お前、それ、ファシリテーターだな」
「え」
「全体を見て、必要な人に必要な情報を、必要なタイミングで渡す。会議室でやるか戦場でやるかの違いだけだ。お前の適性は、どこに行っても同じだな」
通信が切れた。
ファシリテーター。
会議室でも、カウンセリングルームでも、草原の丘の上でも。
俺の仕事は、結局——人を見て、繋ぐことだ。
言葉があってもなくても。
走れても走れなくても。
明日は試練の最終日。
ラグナと、大地の鼓動の話をする約束がある。
筋肉痛は昨日より酷かったが、心は——少し、軽かった。




