第109話 走れない男と、群れの掟
朝は、遠吠えで始まった。
天幕の外から、低く長い声が響く。一人の遠吠えが、二人、三人と重なり、やがて集落全体に広がっていく。
目覚まし、というより——群れの確認だった。俺はここにいる。お前もそこにいるな。よし、今日も生きている。
天幕を出ると、獣人たちがすでに集まっていた。
ラグナが中央に立ち、腕を組んでいる。
「走る」
一言だった。
朝駆け。集落の周囲を一周する。獣人にとっては軽い準備運動。距離にして、およそ五キロ。
リゼが俺の隣に立った。
「ナギ。無理しないで。ついてくるだけでいい」
「五キロ、走れますかね」
「走れなかったら、歩く。歩けなかったら、這う」
「それは励ましですか」
「アドバイス」
号令はなかった。ラグナが走り始めた瞬間、全員が続いた。
リゼが先頭集団に入った。獣人の戦士たちと並んで走る。足運びが軽い。風に乗っているように見えた。
ディアブラが中盤を走る。マントを脱ぎ、身軽な装いで地面を蹴っている。角が朝日に光った。獣人の若者が横目で見て、速度を上げた。負けたくないらしい。ディアブラも上げた。無言の競争が始まっていた。
フランは最初の一キロで脱落した。
「非合理的……! 身体運動による信頼構築の効率は、データ提示の七分の一以下よ……!」
膝に手をついて息を切らしている。獣人の老婆が通りがかりに水を差し出した。フランは受け取りながら「ありがとう」と言ったが、老婆は言葉には反応せず、ただ頷いて去っていった。
ルゥは獣人の子供たちと走り回っていた。速くはないが、楽しそうだった。子供たちがルゥの手を引いて、草原の抜け道を教えている。言葉はほとんど交わしていない。身体の距離感だけで、もう仲間になっていた。
俺は——最下位だった。
二キロ地点で足が止まった。獣人の子供に抜かれた。五歳くらいの女の子が、振り返って俺を見て、首を傾げた。
なぜこの大人は走れないのだろう、という目だった。
三キロ地点で歩きに変わった。四キロ地点で、膝が笑い始めた。
五キロ、完走した。
最後尾。全員がとっくにゴールした後。
ラグナが腕を組んだまま、俺を見ていた。
「遅い」
「……はい」
「弱い」
「はい」
「だが——止まらなかった」
それだけ言って、背を向けた。評価なのか事実の記述なのか、わからなかった。
*
昼。狩りの時間。
獣人の狩りは、チーム戦だった。
八人一組で獲物を追い込み、包囲し、仕留める。連携は——全て身体言語だった。
声を使わない。
耳の角度。尻尾の振り方。視線の方向。足の踏み替え。肩の開き具合。それだけで、八人が一つの生き物のように動く。
俺は後方から見ていた。走れないので、狩りの本隊には入れない。
だが——見える。
先頭の戦士が左耳を倒した。次の瞬間、左翼の二人が後退した。
右翼の一人が尻尾を一度だけ強く振った。中央の三人が同時に前に出た。
ラグナが視線を獲物の右後方に移した。全員の動きが、その視線に吸い寄せられるように右に回り込んだ。
パターンだ。
カウンセラーの訓練で叩き込まれた、非言語コミュニケーションの読み取り。相談者の視線の動き、手の位置、足の組み方、呼吸のリズム——それを読む技術は、言葉のない世界でも生きていた。
「フラン」
「何」
「左耳を倒すのは撤退の合図。右耳を立てるのは包囲開始。尻尾を強く振るのは突撃命令。視線の方向が次の移動先を示している」
フランの目が光った。
「……信号体系。音声言語ではなく、身体信号で戦術連携をしている。合理的だわ。音声より伝達速度が速く、獲物に気づかれない」
「覚えられそうですか」
「私は体系化する。あなたは現場で読む。分担しましょう」
午後の二回目の狩りでは、俺はフランの隣で信号を読み続けた。走れない代わりに、見る。読む。記録する。
一日の終わりには、基本信号の七割を解読していた。
ラグナが、ちらりと俺を見た。目が少しだけ細くなった。
何も言わなかった。だが——興味を持たれた気配がした。
*
夜。焚き火を囲んだ。
獣人たちが、肉を焼き、酒を飲み、やがて——遠吠えを始めた。
朝の遠吠えとは違った。もっと長く、もっと高く、もっと感情が乗っている。
歌に近い。だが歌詞はない。声だけが、夜空に伸びていく。
嬉しい時の遠吠え。悲しい時の遠吠え。仲間を呼ぶ遠吠え。獲物を讃える遠吠え。
言葉がなくても、感情は伝わる。
ルゥが目を輝かせた。
「ルゥもやる!」
ルゥが遠吠えを真似た。
「あおーーーーん!」
獣人の子供たちが大喜びで遠吠えを返した。ルゥと子供たちの即席の合唱が始まった。音程は滅茶苦茶だったが、焚き火の周りが一気に明るくなった。
ルナに切り替わった。
「……やめて。恥ずかしい」
だが、焚き火の灯りの下で、ルナの口元がわずかに緩んでいた。
ディアブラが焚き火の隅で酒を飲んでいた。獣人の酒は強い。だが魔王の体にはちょうどいいらしい。
隣に座った若い獣人の戦士が、ディアブラの角を指さして何か言った。身振りで「強い」「かっこいい」と伝えているようだった。
「……ふん。当然だ」
ディアブラが顔を背けた。耳が赤い。褒められ慣れていない。
ラグナが、俺の隣に来た。
無言で座った。肉を齧り、酒を一口飲み、焚き火を見つめた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「お前、走れないのに、目だけは群れの長の目をしているな」
「……どういう意味ですか」
「狩りの時、お前は信号を読んでいた。一日で、七割。……普通の人間には無理だ」
「カウンセラーという仕事をしていたので。人の身体の動きを読む訓練を——」
「理由はどうでもいい。お前には群れを見る目がある。走れない奴が群れにいてもいい。見える奴は、別の役割がある」
ラグナが焚き火に枝を一本くべた。炎が跳ねた。
「明日は、狩りの本番だ。大物を追う。お前は——後ろに立って、群れの全体を見ろ。走れない奴は、見る。それがお前の仕事だ」
「……はい」
「それと」
ラグナが俺を見た。狼の目だった。
「明日の獲物は、最近おかしくなっている。大地の鼓動が弱まっているせいで、獣が暴れる。気をつけろ」
大地の鼓動。
魔脈のことだ。
獣人は本能で感知するが、言語化しない。「魔脈枯渇」とは言わない。「大地の鼓動が弱まっている」と言う。
同じ現象を、同じ言葉で語れないまま、全種族が同じ危機に直面している。
「ラグナ」
「殿はつけないのか」
「つけた方がいいですか」
「いらん。ラグナでいい」
「ラグナ。明日の狩りの後、少し——話を聞いてもらえますか」
「言葉の話か?」
「大地の鼓動の話です」
ラグナの耳が、ぴくりと動いた。
「……いいだろう。走った後でな」
走った後。
俺は筋肉痛の足を伸ばした。
明日、この足で——群れの「目」になる。
走れなくても、見ることはできる。




