第108話 聖女の帰還と、大聖堂の影
王都の空は、曇っていた。
セラフィーナは馬車の窓から大聖堂の尖塔を見上げた。白い石壁。金の十字架。聖光教団の総本山。
三ヶ月前まで、ここが自分の全てだった。
今は——敵地に見える。
「セラフィーナ様。到着いたしました」
聖騎士隊長レティシアが馬車の扉を開けた。銀の鎧が曇り空に鈍く光る。
「ありがとう、レティシア」
セラフィーナは微笑んだ。聖母の微笑み。この場所では、この仮面が必要だった。
大聖堂の回廊を歩く。
空気が、変わっていた。
三ヶ月前は、ここには祈りの静けさがあった。聖職者たちがすれ違えば穏やかに挨拶を交わし、中庭では若い修道士が聖典を朗読していた。
今は——静けさの質が違う。
すれ違う聖職者たちの目が、こちらを窺っている。挨拶はするが、視線がすぐに逸れる。何かを恐れている目。誰かの許可なく行動できない人間の目。
セラフィーナは、その目を知っていた。
かつての自分も、同じ目をしていたから。
道中のレティシアとの会話が蘇る。
王都への三日間の旅路で、セラフィーナはレティシアと夜ごとに話をした。最初は警戒していた若き隊長が、二日目の夜、ぽつりと口を開いた。
「……猊下の『魂の対話』を受けた後、私は変わりました」
「どのように」
「判断が、できなくなったのです。何かを決める時、猊下ならどう仰るだろうか、と考えてしまう。自分の意見が正しいのか、わからなくなる。猊下に相談しなければ、一歩も動けない」
レティシアの声は、平坦だった。自分の症状を、自覚すらしていない声だった。
「それは——おかしいことなのでしょうか」
「レティシア。それは導きではありません」
セラフィーナは、静かに言った。
「それは、支配です」
レティシアの目が、揺れた。だが、すぐに元に戻った。一度の言葉では解けない。何年もかけて作られた鎖は、何度も対話を重ねて、少しずつ緩めるしかない。
セラフィーナは焦らなかった。
ナギから学んだことがある。扉を叩くのではない。扉の前に、立つのだ。
*
応接間に通された。
待っていたのは、副枢機卿ロレンツォ。五十代。丸い顔に柔和な笑み。ガレリウスの右腕と呼ばれる男だった。
「おかえりなさいませ、セラフィーナ様。長旅、お疲れでしょう」
「ありがとうございます、ロレンツォ様」
「猊下もお喜びですよ。再審査は来月の第二週を予定しております。それまでは、大聖堂内でゆっくりお過ごしください。外出はご遠慮いただいた方が……何かとお騒がせになりますから」
柔和な笑みの下に、鉄の檻が透けていた。
来月の第二週まで大聖堂内。外出禁止。つまり——軟禁。
セラフィーナは微笑みを崩さなかった。予想通りだった。
「承知いたしました。ただ——」
「ただ?」
「私の同行者についてですが」
セラフィーナの後ろで、アリスが一歩前に出た。
フリルのドレス。リボン。長い睫毛に、花のような笑顔。どこからどう見ても可憐な少女にしか見えない。
だが、胸元に掛かった首飾りは——勇者家の紋章だった。
ロレンツォの目が、アリスの顔と紋章を往復した。困惑が浮かんでいる。教団の記録では、勇者家の現当主の子は——男のはずだ。
「勇者家が一子、アリスター・ヴァンガードと申します」
アリスの声が、いつもと違っていた。フリルの少女ではなく、名家の当主代理の声だった。
「あ、でもアリスターって呼ばないでくださいね。アリスちゃんって呼んでください」
一瞬で崩れた。ロレンツォが目を瞬かせた。
だが、次の言葉は——崩れなかった。
「私の同行者の行動を制限されるのであれば、勇者家として、教団への年間寄進額の見直しを検討せざるを得ません」
声が、甘いまま、刃になった。
フリルのドレスの下に、勇者の血が流れている。外見に惑わされた者ほど、その落差に足を掬われる。
ロレンツォの笑みが固まった。勇者家の寄進は教団の財政の柱の一つだ。相手が嫡男であろうと嫡女であろうと男の娘であろうと、その蛇口を締める権限は本物だった。
「……もちろん、アリス……様のご滞在については最大限の便宜を図りますとも」
「では、セラフィーナ様と私の大聖堂外への外出も、便宜の中に含まれますわね」
「それは……」
「含まれますわね?」
アリスの目が、笑っていなかった。可愛い顔の奥に、聖剣を振るう勇者の目があった。
ロレンツォが、渋々頷いた。
「……日中に限り、護衛付きでの外出を許可いたします」
「ありがとうございます。フリルの加護がありますように」
最後の一言で、アリスはいつものアリスに戻った。ロレンツォの顔に、困惑と安堵と警戒が同居していた。
セラフィーナは内心で微笑んだ。この子を連れてきて正解だった。勇者家の政治力と、男の娘の掴みどころのなさ。相手に判断の軸を与えない。最高の外交兵器だった。
*
翌日。ソフィアが王立学院を訪ねた。
かつて追放された場所。正門をくぐる足取りは、固かった。だが、止まらなかった。
旧同僚の研究者を捕まえ、魔脈データの概要を伝えた。
「魔脈の総量が減少している。全種族に影響する。このデータを——」
「ソフィア。そんな研究、また追放されるぞ」
「今回は、一人じゃありません」
ソフィアは、そう言い切った。
声は震えなかった。エルフの国で、エレノアの前で「国が滅びます」と告げた時の自分を思い出していた。あの時できたなら、ここでもできる。
旧同僚の目が、わずかに変わった。興味と、恐れが、混在している。
「……データだけ、見せてくれ」
「ノートの写しを置いていきます。判断は、あなたに任せます」
ソフィアは学院を後にした。種は蒔いた。芽が出るかどうかは、相手次第。
ナギ様の言い方を借りるなら——扉の前に立っただけ。
*
夜。セラフィーナは自室で水晶球を起動した。
霧の中に、ナギの顔が浮かんだ。
草まみれで、息が荒い。
「ナギ様。……お顔が、草だらけですわ」
「走らされました。草原を。二十分ほど」
「お元気そうで何よりです」
「元気では……ないです……」
セラフィーナは小さく笑った。それから、表情を引き締めた。
「ご報告いたします。大聖堂の空気は予想通りです。ガレリウス猊下は直接動いていませんが、副枢機卿ロレンツォを通じて、私を事実上の軟禁下に置こうとしました」
「軟禁……」
「アリスが勇者家の政治力で条件を緩和してくれました。日中の外出は確保できています」
「アリスが」
「ええ。あの子、すごいですわ。フリルの下に聖剣を隠していますの。ロレンツォは完全に翻弄されていました」
ナギが少しだけ笑った。
「セラフィーナさん。気をつけてください」
「もちろんですわ。利子の返済が残っておりますもの」
水晶球の向こうで、ナギが何か言いかけた。だが——横から声が入った。
「ナギお兄さーん! ご飯できたよー! お肉ー!」
ルゥの声だった。
「……すみません、呼ばれました」
「お行きなさいませ。お肉を食べて、明日も走ってください」
「走りたくないです……」
通信が切れた。
セラフィーナは水晶球を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
あの声を聞くと、安心する。
同時に——自分がここにいる理由を、改めて確認する。
あの人たちが走っている間に、私はここで、別の戦いをする。
聖母の仮面を被り直した。明日から、本格的に動く。若い聖職者たちの中に、レティシアのような人が何人いるか。一人ずつ、見つけていく。
ガレリウスが何年もかけて作った鎖を、一本ずつ、緩めていく。
気の遠くなる作業だ。
だが——千年凍っていた女王の心が溶けるのにも、五日かかったのだ。
焦る必要はない。
*
同じ夜。
ナギの水晶球が、もう一度鳴った。
フェンリルだった。
「ドワーフとの初回交渉を終えた。鍛冶ギルド長のドルグという男が出てきた。開口一番『で、うちに何の得がある?』。好感が持てる」
「好感持てるんですか、それ」
「実利で動く人間は嘘をつかない。嘘をつかない相手との交渉は、楽だ。——先方の要求は鉱脈の優先採掘権30%。こちらは商会の流通網開放と魔素安定供給の保証を提示した」
「まとまりそうですか」
「30%は吹っかけだ。落としどころは20%前半。二回目で詰める」
「……頼もしいです」
「当然だ。これが俺の本業だ。お前は走れ」
通信が切れた。
ナギは天幕の中で、干し肉を齧りながら、思った。
三つの戦線が、同時に動いている。
草原で、走っている自分。
王都で、鎖を解こうとしているセラフィーナ。
ドワーフの国で、数字を叩いているフェンリル。
全部、自分一人では回せない。
でも——回っている。
それぞれの場所で、それぞれの人が、自分の武器で戦っている。
俺の武器は、明日から——足だ。
筋肉痛の足を伸ばして、天幕の毛皮に包まった。
草原の夜は、翠嶺と違って、音に満ちていた。虫の声、風の音、遠くの遠吠え。
生きている音だ。
目を閉じた。明日も、走る。




