第107話 大地の民と、言葉のない歓迎
草原は、どこまでも続いていた。
翠嶺の森が背後に消え、世界樹の影が地平線に溶けてから、もう半日が経っている。前も後ろも左も右も、草と風と空だけだ。
空気が違った。
翠嶺は「止まった空気」だった。ここは「走る空気」だ。風が草を撫で、草が波のように揺れ、大地そのものが呼吸しているように見える。
「ナギお兄さん! 見て見て! 草がきらきらしてる!」
ルゥが馬車の幌から身を乗り出していた。朝露が草原一面に残っていて、陽光を受けて光っている。
「ルゥ、落ちますよ」
「大丈夫! 私身軽だから!」
ルナに切り替わった。
「……引っ込みなさい。偵察なら私がやるわ」
ルナの目が草原を走査した。盗賊の目。遠くの動きを拾う目。
「動体反応、三。南東、一キロ先。こちらに向かっている」
フランが本から目を上げた。
「獣人の斥候ね。予想通りの距離で接触してきたわ」
馬車が止まった。
御者席のリゼが振り返った。
「ナギ。何かいる」
全員が外を見た。
草原の中に、影が三つ。
人間の形をしている。だが——耳が長い。尻尾がある。肌は褐色で、薄い毛皮の衣を纏っている。手には短い槍。
獣人だ。
俺は馬車を降りた。
「はじめまして。冒険者ギルドのナギと申し——」
三人の獣人は、俺を見なかった。
文字通り、見なかった。視線が俺の上を通過し、馬車を一瞥し、仲間と目を合わせた。耳の角度が変わり、尻尾が一度だけ振れた。
そして——踵を返して、歩き始めた。
「……無視された」
「無視じゃないわ」
フランが眉をひそめた。
「反応はしている。ただし、言語に対して反応していない。彼らの情報処理は、視覚と嗅覚が優先。音声言語の優先順位が極端に低い」
「つまり」
「あなたの言葉が、聞こえていないわけではない。ただ、意味のある情報として処理されていないのよ」
俺の一番の武器が、最初の一秒で無効化された。
フェンリルの警告が蘇る。「弾くんじゃない。そもそも受け取らない」
その時、リゼが馬車から飛び降りた。
三人の獣人の前に、回り込んだ。
何も言わなかった。
ただ、正面に立ち、目を合わせた。
それから、ゆっくりと、姿勢を低くした。膝を軽く曲げ、重心を落とし、両手を体の横に下げる。視線は逸らさない。
Aランク冒険者の身体が発する気配が、変わった。攻撃ではない。敵意でもない。「ここにいる。見ている。逃げない」という宣言だった。
三人の獣人が、足を止めた。
先頭の一人——狼に似た耳の青年が、リゼを見た。
鼻が動いた。匂いを嗅いでいる。
五秒。
十秒。
「……お前」
初めて、言葉が出た。
「群れの匂いが、する」
リゼが、わずかに顎を引いた。獣人の言語ではなく、身体で——「そうだ」と返した。
青年の目が、初めてリゼの後ろの俺たちを見た。一人一人を、匂いで査定している。
「ついてこい」
それだけ言って、走り出した。
リゼが振り返った。
「ナギ。走って」
「え」
「走る。今すぐ」
獣人の斥候が、全速力ではないが、かなりの速度で草原を駆けている。
「追いつくんですか、あれに」
「追いつかなくていい。ついていくの。離れたら、たぶん——置いていかれる」
全員が走り始めた。
リゼが先頭。ディアブラが続く。マントを翻して走る魔王の姿は、戦場のそれだった。フランが「非合理的……!」と呟きながら走る。
ルゥが俺の横に並んだ。
「お兄さん! 走るの楽しいね!」
「楽しく……ないです……!」
「えー、風気持ちいいよ!」
ルナに切り替わった。
「ペースを落とすな。離されたら終わりよ」
「ルナさん……息が……」
「呼吸は鼻から。口で喋るな。体力が持たない」
的確だった。盗賊の体力管理は、こういう時に効く。
*
どれくらい走っただろう。
体感では永遠だったが、たぶん二十分ほどだった。
草原の中に、集落が現れた。
天幕の群れ。動物の皮を張った、簡素だが頑丈な住居。焚き火の煙。子供たちの声。犬のような獣が駆け回っている。
そして——中央に、一人の男が立っていた。
狼の獣人。長い銀灰色の毛並み。鋭い目。三十代相当の肉体だが、纏う空気は歴戦の戦士のそれだった。
腕を組み、こちらを見ている。
族長ラグナ。
ラグナが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
リゼの前で足を止めた。鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
「……いい匂いだ。群れを守る者の匂い」
次に、ディアブラの前に来た。角を見上げた。
「強い。お前、何者だ」
「魔王ディアブラだ」
ディアブラは隠さなかった。
ラグナが、鼻を鳴らした。
「魔王。……で、強いのか」
「試すか」
「後でな」
興味はあるが、今ではない、という顔だった。肩書きではなく、強さで測る。
フランの前では立ち止まらなかった。ルゥの前で一瞬だけ足を止め、匂いを嗅ぎ、「子供か」と呟いてルナに切り替わった瞬間、「……違うな。二匹いる」と目を細めた。獣人の嗅覚は、二重人格を匂いで嗅ぎ分けるらしい。
最後に、俺の前に来た。
鼻が、俺の顔の近くまで来た。
長い、査定だった。
「……弱い」
率直だった。
「だが」
ラグナの目が、俺の目を覗き込んだ。
「群れを束ねる者の匂いがする。弱いのに。不思議な奴だ」
「……ありがとうございます」
「褒めてない」
ラグナが腕を組み直した。
「お前たち、何しに来た」
「和平プロジェクトのご説明を——」
「言葉はいい」
遮られた。
「お前が何者かは、走ればわかる。明日から三日間、俺たちと一緒に暮らせ。走って、狩って、食って、眠れ。三日後に、お前が群れの客人かどうか、俺が決める」
「三日間の試練、ということですか」
「試練とは言っていない。一緒に暮らすだけだ。それで十分わかる」
ラグナが背を向けた。
「天幕を用意させる。今日は休め。明日の朝は早い」
去り際に、ちらりと振り返った。
「走れない奴は、別の役割がある。心配するな」
それだけ言って、集落の奥に消えた。
俺は草原に立ち尽くした。
言葉が通じない。交渉のテーブルがない。報告書も、データも、問いかけも、意味を成さない。
あるのは——走ることと、食うことと、眠ること。
身体だけの世界。
「ナギ」
リゼが隣に来た。
「大丈夫。あたしが隣にいる」
「……リゼさんは、ここ、相性が良さそうですね」
「うん。なんか——息がしやすい」
Aランクの剣士が、草原の風を吸い込んで、少しだけ笑った。
俺はポケットに手を入れた。
胃薬とフリルの護符が並んでいる。
明日から——走る。
言葉のない世界で、身体だけで、信頼を築く。
カウンセラーの俺に、できるのだろうか。




