第106話 翠嶺を発つ朝と、分かれる道
出発の朝は、晴れていた。
翠嶺に来て初めて、雲一つない青空だった。世界樹の梢が朝日に輝き、並木の葉が金色の縁取りを纏っている。
千年止まっていた国で、季節が動き始めたような朝だった。
迎賓館の前に、エレノアが立っていた。
記憶の間ではなく、外に。
淡い翠のドレス。背筋は真っすぐ。微笑みは——あの「鉄壁の仮面」ではなく、薄くて頼りないが、本物の笑顔だった。
「お見送りに来ましたわ」
「ありがとうございます」
一行が荷物を馬車に積み込む中、エレノアがディアブラの前に歩み寄った。
手に、硝子の額縁を持っていた。
押し花。
白い花弁。色褪せた薄茶。五百年前、アルマがエレノアに贈った花。
「ディアブラ様」
「……何だ」
「これを、お持ちいただきたいのです」
ディアブラの目が、押し花に落ちた。
「これはもう、硝子の中で凍らせておくものではありません。アルマの友であるあなたの手元に、あるべきものです」
ディアブラは、しばらく額縁を見つめていた。
手を伸ばし、受け取った。長い指が、硝子の縁を慎重に包む。
「……預かる」
短い一言だった。だが、その声は——わずかに、掠れていた。
エレノアが微笑んだ。
「あの子のことを覚えている人が、二人になりましたわね」
「……ああ」
「いつか。あの子の歌を、一緒に歌いませんか」
ディアブラが顔を背けた。耳が赤い。
「……考えておく」
それは、ディアブラの言葉でいう肯定だった。
エレノアが俺の前に来た。
「ナギ様」
「はい」
「あなたは、扉の前に、立ってくださいました」
「私は立っただけです。開けたのは貴方です」
「ふふ。そうですね」
エレノアが手を差し出した。俺はその手を取った。千年を生きた女王の手は、細く、冷たかった。だが——ほんのわずかに、温かくなっている気がした。
「世界樹の根の回復には時間がかかります。ですが——長老評議会と協力して、魔脈の調査を始めます。五百年遅れましたが、動くことにしましたので」
「エレノア様なら、大丈夫です」
「それは過信ですわ。……でも、ありがとうございます」
エレレアに仮面は最早必要なくなっていた。
*
セラフィーナ組が先に出発した。
聖騎士レティシアの護衛馬車に、三人が乗り込む。
馬車の窓からセラフィーナが顔を出した。
「ナギ様。くれぐれもお身体に気をつけて。利子、忘れないでくださいね」
「忘れません」
「先生ーっ!」
アリスが反対側の窓から身を乗り出した。
「フリルの護符、絶対なくさないでくださいね! なくしたら……なくしたら……泣きます!」
「なくしません。ポケットに入ってます」
「胃薬の隣ですか?」
「胃薬の隣です」
「よし!」
ソフィアは窓から顔を出さなかった。馬車の奥で、小さく一礼しただけだった。だがその目が——赤かった。
馬車が動き出した。
リゼが俺の隣で、遠ざかる馬車を見ていた。
「……行っちゃった」
「行きましたね」
「大丈夫かな」
「大丈夫です。三人とも——もう、一人じゃないですから」
リゼが小さく頷いた。
*
出発準備の最中に、水晶球が鳴った。
フェンリルだった。
「ナギ。ドワーフ連合の件だが、俺が直接叩く。商会の流通網を餌にすれば、ドワーフの鍛冶ギルドは食いつく。向こうも魔脈が細ってきて鉱石の質が落ちている。魔素安定供給と引き換えなら、交渉の土台は十分だ」
「フェンリルさんにお任せして、いいんですか」
「お前が全部やろうとするな。何度言わせる」
「すみません」
「ドワーフは実利で動く。実利の交渉は俺の本業だ。お前は獣人をやれ」
「……はい」
「それと、ナギ」
フェンリルの声が、少しだけ低くなった。
「獣人は言葉が通じない相手だ。お前の一番の武器が、役に立たない。エルフの女王でさえお前の問いかけで揺れたが、獣人はそもそも受け取らない。覚悟しておけ」
通信が切れた。
簡潔で、的確で、少しだけ優しい。いつものフェンリルだった。
*
馬車が動き出した。
ナギ組六名。ナギ、リゼ、フラン、ルゥルナ、ディアブラ。
翠嶺の並木道を抜け、千年同じだった石畳の上を走る。巨木のアーチをくぐり、国境を越える。
俺は幌の隙間から、遠ざかる世界樹を眺めた。
この旅で、三人の王に会ってきた。
魔王は仲間になった。
リヒャルト王には、言葉が届いた。
エレノア女王には、言葉で扉を開き、存在と行動で届いた。
次の相手——獣人には、言葉がそもそも届かない。
段階的に、俺の武器が削られていく。
カウンセラーの一番の道具は言葉だ。その言葉が使えない場所で、俺に何ができるのか。
「ナギ」
リゼが、隣で袖を掴んだ。
「考え事?」
「少し」
「考えすぎないで。走れなくても、あたしが代わりに走るから」
「……走るんですか?」
「獣人の国でしょ。たぶん、走る」
嫌な予感がした。
「ナギお兄さん!」
ルゥが馬車の荷台からひょこっと顔を出した。
「獣人さんの国って、動物いっぱいいるかな? ルゥ、もふもふしたい!」
「もふもふは目的じゃないです」
「もふもふは目的とかそーゆんじゃない!」
フランが本を読みながら、眼鏡の奥で呟いた。
「獣人の社会構造に関する文献は三冊持ってきたわ。だけど——現地の行動様式については、ほとんど記録がない。未知の領域ね」
「フランさんが未知というのは、珍しいですね」
「だから面白いのよ」
ディアブラは馬車の隅で、膝の上に額縁を置いていた。硝子越しに押し花を見つめている。何も言わない。だが、その横顔は——穏やかだった。
*
国境の丘を越える時、俺はふと窓の外を見た。
丘の上に、影が一つ。
エスト。
老エルフが、丘の上に立っていた。
見送りではない。腕を組み、こちらを見ている。手も振らない。声もかけない。
ただ——そこに、いた。
賛成はしなかった。反対もしなかった。棄権という、五百年の怒りの中の、最小の一歩だけを残した老人が、丘の上から、去りゆく馬車を見ていた。
俺は何も言わなかった。手も振らなかった。
治せなかった人を、抱えたまま、次の国へ向かう。
それが、カウンセラーの現実だ。
全員は救えない。でも——次の場所で、次の人に、会いに行く。
丘が、視界の後ろに消えた。
草原が広がった。
風の匂いが変わった。翠嶺の澄んだ森の香りから、土と草と——微かに獣の匂いが混じる、荒々しい風に。
リゼの鼻がぴくりと動いた。
「……来る。何か、近づいてくる」
草原の奥から、砂煙が一筋、こちらに向かっていた。
速い。
馬車より、ずっと速い。
俺はポケットに手を入れた。
胃薬と、フリルの護符が、並んでいた。




