第105話 三つの別れと、それぞれの約束
順番はくじ引きで決まった。朝アリス、昼ソフィア、夕方セラフィーナ。
セラフィーナが最後を引いた時、聖母の笑顔のまま「最後が一番記憶に残りますわね」と言った。リゼの目が三角になった。
出発は明後日の朝。今日が、三人との最後の一日になる。
*
朝。アリスが迎賓館の玄関で待っていた。
フリルのドレス。リボン。日傘。完全装備。頬が少し上気している。緊張しているらしい。
「先生! 参りましょう!」
「どこに」
「市場です! エルフの市場に、可愛い小物がないか探しに行きましょう!」
アリスに引っ張られて、翠嶺の市場を歩いた。千年変わらない品揃え。同じ三種類の果物、同じ様式の陶器、同じ色合いの布。だがアリスの目には、全てが新鮮に映るらしい。
「先生、見てください。この木彫りの鳥、可愛くないですか」
「可愛いですね」
「でもフリルがないです。惜しい」
「木彫りにフリルは難しいのでは」
「彫ればいいのに。エルフの彫刻技術なら絶対できます」
店主のエルフが困惑した顔をしていた。千年間、フリルの注文を受けたことがないのだろう。
三軒目の小物屋で、アリスの目が光った。
「先生! このビーズ!」
翠色の小さなビーズ。世界樹の樹液を結晶化したものだとティアラが教えてくれた。微弱だが魔素を含んでいるらしい。
アリスはビーズを三つ買い、近くの布屋で白いリボンの端切れを手に入れた。ベンチに座って、器用な指先でリボンにビーズを通していく。
「……何を作っているんですか」
「待ってて。すぐできます」
ティアラに「エルフの祝福ってどうやるんですか」と聞いた。ティアラが教えると、アリスは見よう見まねで、小さなビーズに祈りを込めた。所作がぎこちないが、目だけは真剣だった。
「はい、先生」
小さな護符が差し出された。白いフリルのリボンに翠色のビーズが三つ。不格好だが、手のひらに乗せると、微かに温かかった。
「フリルの加護です。先生がドワーフの国で怪我しませんように」
「……ありがとうございます。大切にします」
「フリルに不可能はありません!」
俺はポケットに護符を入れた。胃薬の隣に。
林檎飴を二つ買って、並んで舐めた。エルフの林檎飴は甘さが控えめで、少しだけ渋みがある。千年前のレシピなのだろう。
アリスが林檎飴を舐めながら、空を見上げた。
「先生」
「はい」
「私、セラフィーナ様を守ります」
声が変わっていた。フリルの奥の、真剣な声。
「お父様には、勇者の家系にふさわしくないと言われました。心は乙女でフリルが好きで、剣術が下手で、魔法も並。勇者の血筋の中で、一番できの悪い息子だって」
「……」
「でも先生が教えてくださいました。自分の好きなものは、自分で守っていいって」
アリスが俺を見た。林檎飴の欠片が唇についている。だが、目だけは——澄んでいた。
「私は、フリルが好きです。セラフィーナ様が好きです。先生が好きです。好きなものを守るのが勇者なら——私は、勇者です。誰に何と言われても」
俺の目が、少し熱くなった。
「貴方は……立派な勇者ですよ、アリス」
「えへへ」
アリスが笑った。林檎飴が斜めになった。
「先生も、お身体気をつけてくださいね。胃薬、ちゃんと持ってますか」
「持ってます」
「フリルの護符と、一緒に」
「一緒にです」
アリスが嬉しそうに笑った。
勇者は、フリルのドレスを着ていて、唇に林檎飴の欠片をつけていた。
*
昼。ソフィアが迎賓館の図書室で待っていた。
テーブルの上に、分厚いノートが一冊。その横に、翠茶の茶器が二つ。ソフィアが自分で淹れたらしい。湯気が立っている。
「お待ちしていました、ナギ様」
「……お茶まで準備してくれたんですね」
「フランさんに、『データだけ渡して帰るな、お茶くらい出せ』と言われまして」
ソフィアが眼鏡を押し上げた。耳がわずかに赤い。
茶を一口飲んだ。苦い。エルフの翠茶は繊細な淹れ方が必要なのだが、ソフィアは研究者の正確さで分量を計り、逆に繊細さを殺していた。
「美味しいです」
「……嘘をつかないでください。苦いのは自覚しています」
「苦いですが、気持ちが入ってるので美味しいです」
「気持ちは味覚に影響しません。科学の否定です」
「心理学的には影響します」
ソフィアが少し考えて、「そうですか」と小さく頷いた。
ノートを差し出された。
「世界樹の根の分析データ、魔脈枯渇の進行予測、各種族の魔素波長の比較表。ドワーフ連合との交渉で必要になるデータを全てまとめました」
頁をめくった。びっしりと数式とグラフ。注釈。参考文献。フランの筆跡と、ソフィアの筆跡が交互に現れる。二人で作ったことがわかる。
「昨夜、フランさんと二人で徹夜しました。本来はフランさんが持っていれば足りるのですが——」
「予備があった方がいい」
「はい。それと、フランさんは時々ノートをなくしますので」
「……なくすんですか、あの人」
「天才は整理整頓が苦手なのです。私は凡才なので整理は得意です」
ソフィアの自己評価は、いつも低い。だがそれを指摘すると逆に固くなるので、俺は黙って頁をめくった。
最後の頁に辿り着いた。
データではなかった。
小さな文字で、丁寧な手書き。
『ナギ様へ。この研究が世界を救う礎になると信じています。データは嘘をつきません。人の心は時に揺れますが、数字は揺れません。あなたが迷った時、このノートを開いてください。数字が、道を照らします。——ソフィア』
「ソフィアさん」
「恥ずかしいので、声に出して読まないでください。もう閉じてください」
ソフィアの耳が真っ赤だった。眼鏡を押し上げる手が、少し震えている。
「……書くのに、三回書き直しました。データの記述は一度で正確に書けるのに、こういう文章は、何度書いても正解がわからなくて」
「正解ですよ、これ」
「そんなわけありません。文章の評価基準が曖昧です」
「曖昧でいいんです。気持ちは数値化できないので」
ソフィアが、しばらく黙った。
それから、ぽつりと言った。
「ナギ様。王都に戻ったら、魔脈の研究を正式に発表します。今度は追放されないように。セラフィーナ様が政治的な後ろ盾に、アリス様の血筋が盾に。……一人じゃないのです、今回は」
「ええ。一人じゃないです」
「それと——フランさんに、伝言をお願いします」
「はい」
「『先に論文を出したら許しません』と」
「……研究者の約束ですね」
「最も重い約束です。万死に値します」
ソフィアが立ち上がった。
「お気をつけて。データが必要になったら、水晶球で呼んでください。いつでも」
「ありがとうございます」
「いつでも、と申し上げました」
声が、少し震えた。
「……本当に、いつでも、です。夜中でも、朝方でも。研究者に睡眠時間の概念はありませんので」
「それは心配ですが……ありがとうございます」
ソフィアが一礼して、図書室を出ていった。
扉の向こうで、小さな足音が、少しだけ速く遠ざかった。泣いているのか、走っているのか。たぶん、両方だった。
*
夕方。
セラフィーナは、世界樹の麓にいた。
夕日が世界樹の幹を染めている。金色と翠が混じり合って、幹が琥珀のように光っていた。
「ナギ様。ここは落ち着きますね」
「世界樹の麓ですか」
「ええ。この木が、千年の孤独から目を覚ました場所ですから。……何となく、ここがいいと思いまして」
二人で並んで、世界樹を見上げた。
根元は、まだ黒ずんでいる。だが、昨日よりわずかに——翠が、戻り始めているようにも見えた。
「ナギ様」
「はい」
「教団に戻ったら、私は——ガレリウス猊下と、対峙することになります」
「ええ」
「怖いです」
あっさりと言った。聖母の笑顔ではなく、一人の女性の顔で。
「若い頃、あの方の『魂の対話』で、私は自分を失いました。自分の祈りも、自分の声も、全て空っぽにされた。……あの場所に戻るのは、正直に申し上げて、怖い」
「怖くて当然です」
「ええ。でも——逃げません」
セラフィーナが、俺の方を見た。
「逃げなくなったのは、あなたのおかげです」
「俺のおかげじゃないです。セラフィーナさん自身が——」
「はいはい。『自分で選んだ』のですわよね。あなたはいつもそう仰る」
セラフィーナが、くすりと笑った。
「でも、選べるようになったのは、あなたが隣にいてくださったからです。それだけは、譲りません」
夕日が、世界樹の影を長く伸ばしていた。
風が吹いた。梢が揺れ、翠の葉が数枚、舞い落ちてきた。一枚がセラフィーナの肩に落ちた。彼女はそれを手に取り、透かして見た。
「ナギ様。一つ、お願いがございます」
「何でも」
「何でも、とは不用意ですわね。……では、お言葉に甘えて」
セラフィーナが、目を閉じた。
両手を胸の前で組んだ。祈りの姿勢。だが——聖印には触れていなかった。
歌い始めた。
静かな旋律だった。教団の聖歌ではない。もっと古い、もっと素朴な祈りの歌。音程は高すぎず低すぎず、夕暮れの風に溶けるような声だった。
世界樹の幹に、声が吸い込まれていく。梢が揺れ、葉が舞う。夕日が彼女の銀髪を金色に染めている。
短い歌だった。四十秒ほどで終わった。
余韻が、世界樹の根元に残った。
「……これは」
「母に教わった子守唄です。教団に入る前の——まだ、ただの女の子だった頃の歌」
セラフィーナが目を開いた。
「教団では歌うことを許されませんでした。聖歌以外は不浄だと。……十年以上、歌っていなかった」
「今日、歌えたのは」
「もう、誰かに許される必要がなくなったからです」
セラフィーナが、俺を見た。
聖母の微笑みではなかった。もっと柔らかい、もっと素の、一人の女性の笑顔だった。
「あなたに聞いていただきたかった。ただ、それだけですわ」
「……ありがとうございます。綺麗な歌でした」
「お世辞は結構ですわ」
「私がお世辞を言ったことがありますか?」
「……ありがとうございます」
セラフィーナの頬が、夕日のせいだけではなく、ほんのり赤かった。
「では——利子の件、忘れないでくださいまし」
「忘れません」
「利率は、離れている間も日々上がっていきますわ」
「……高利貸しですか」
「聖女の利子に、法的上限はございませんの」
二人で笑った。
世界樹の下で、最後の夕日を見ながら。
明日、この一行は二つに分かれる。
だが——分かれても、繋がっている。
水晶球で。約束で。利子で。フリルの護符で。ノートの最後の頁で。
俺はポケットに手を入れた。
胃薬と、翠色の護符が、並んでいた。
二時間では、足りなかった。
三人とも。




