8-4 逃がしてやれん
舌で優しく舌を撫でられ、甘やかすように絡み取られる。イリヤにされた、強制的に性感を引き出されるような生々しい口づけとは違う、控えめで緩やかな触れ合いだった。それなのに、丁寧に舌をすり合わせられるたび、息の仕方さえ分からなくなるほどに胸が詰まる。
頬が熱い。目が潤む。舌を絡めるたびに降り積もっていく快感のせいで、息が勝手に上がっていく。口付けの角度を変えるたび、首元をくすぐっていくダガンの髪にさえ、肩が揺れそうになった。
知らず目を閉じていたアステラは、溺れるような心地で、与えられる心地よさを堪能する。
音もなく離れていった唇をぼんやりと見上げていると、ゆっくりとダガンは身を起こして、ふ、と柔らかく苦笑した。
「……真っ赤やん」
『う、るせ……っ』
だってこんなものは知らない。アステラが求めただけの気持ちを返してくれた人もいなければ、たった数分で死にそうになるほど満たされる行為があると教えてくれる人もいなかった。
からかうたびに散々初心な反応を返してきたのはそっちのくせにと、声も出ないのに喚きたくなった。
手首を押さえつけていたダガンの手が、アステラの指の一本一本を慈しむように絡め取っていく。たったそれだけの動作なのに、肌の感触を意識した途端に、どうしようもなく体が昂った。
申告せずとも、これだけ密着していれば、興奮しきってぐずぐすになっているアステラの状態は嫌でもダガンに伝わってしまう。
自分と同じくらい興奮しているらしい相手の状態もまた、言葉などなくても分かっていた。
「……嫌になるわ、ほんま」
ずるずるとアステラの肩口に額を当てたダガンが、興奮に掠れた声で呟く。
「色気も何もあらへんガキやったはずなのにな」
『いつの話だよ』
「さあ……いつからこんなんなってしもたんかな」
わざとらしいため息をついて、ダガンがゆっくりと顔を上げた。
隠すもののない美しい双眸が、アステラだけを見つめて鈍く煌めく。鋭い視線は、言葉よりもよほど雄弁にダガンの心を伝えてくれた。
その目を見つめた瞬間、ぞくぞくと形容しがたい痺れがアステラの背を駆け抜ける。声にならない喘ぎを溢して、アステラは縋るようにダガンの手を握った。
『なあ、俺、もう――』
「ああ」
言葉を交わす余裕があったのなんて、それまでだった。
服を剥ぎ取り、肌を合わせる。勢い任せに体温を分かち合う最中、いっぱいいっぱいだったアステラとは対照的に、ダガンは笑っていた。嬉しくてたまらないとでもいうようにアステラの目の奥をじっと見つめて、恍惚と息を吐いていた。
「あとすこし」
何が、と尋ねようとしたけれど、尋ねるだけの余裕もなかった。
事が済むと、まるで寝物語の代わりのように、ダガンは歌を歌ってくれた。聞き慣れた優しく穏やかな旋律は、しかし今日だけは、奇妙に艶めいた声で紡がれていた。
「もう寝ぇや、アステラ。疲れたやろ」
優しいダガンの声がする。聞いていると落ち着いて、頭がぼうっとしてくる低い声。歌の合間に名を囁かれただけなのに、眠り薬よりもよほど急激に意識が遠くなっていく、魔性の声だ。
ざくりと刃を振るう音がした。イリヤの使い魔の首が落ちる。床に落ちた黒い血に、ダガンが小さな鈴を浸す様子が目に入った。それと同時に、器を失った呪いのかけらが、逃げ込むようにダガンの腹の傷口へと潜り込んでいく様子が目に映る。
アステラにはそれがひどく恐ろしいことのように思えたけれど、当のダガンはといえば、怖がるどころか愛おしむように己の傷口を撫でるだけだった。銀色の髪の合間から覗く口元には、妖艶に歪んだ笑みさえ浮かんでいる。
衣擦れの音が響く。ふっと影が差したかと思えば、アステラの顔を覗き込むように、ダガンが身を乗り出していた。
「なあ、大丈夫や。何にも怖がらんでええ」
美しく煌めく蒼い色が、焦点さえ合わぬアステラの視線を絡み取る。
艶めく蒼と優しい紫のオッドアイ。ダガンだけが持つ二色の瞳は、不安定に揺らいだかと思うと、ぞっとするほど美しく、角度によって色合いを変える一対の蒼へと変わっていく。
「生きたいか、アステラ」
問いかけられて、アステラは夢見心地で頷いた。ダガンの笑みが、かすかに深まる。
「なら、助けたる。……ごめんなあ。あの悪魔はお前に選択肢をやったけど、俺はやれん。逃がしてやれん」
ごめんなあ、ともう一度囁くようにダガンは繰り返す。何を謝っているのか聞きたかったけれど、暗い笑みの交じったダガンの独白は、アステラが問いを口にするより前に、心地よい旋律に取って代わっていた。
身動きひとつできないままに、優しい歌にいざなわれるように、アステラは意識を手放した。




