8-5 悪夢
アステラ、と低く耳馴染みの良い声が名を呼んだ。
微睡みから抜け出せずにいると、催促するようにもう一度声が降ってくる。しぶしぶと目を開けると、苦笑を浮かべたダガンがアステラの顔を覗き込んでいた。
「やあっと起きたか。寝るなら横になっとけばよかったのに」
のろのろと辺りを見渡すと、ステンドグラス越しに色付いた陽光と、古びた祈りの間が目に入った。
教会だ。どうやら長椅子でうたた寝していたらしい。なぜこんなところにいるのかは思い出せなかったけれど、疑問に思うより先に、口が勝手に動いていた。
「ここ、日当たりがいいから気持ちいいんだよ」
「教会で昼寝するやつが居るか」
「誰もいないんだからいいだろ、別に」
両腕を上げて、大きく伸びをする。動かなかったはずの体が動くことも、出なかったはずの声が出ることも、おかしいとは思わなかった。夢なんてそんなものだ。
「おはようのキスは? ダーリン」
流し目を向けて囁くと、途端にダガンは眉間に皺を寄せた。
「するかアホ。いつから俺とお前は新婚夫婦になったんや」
「冗談だよ、冗談」
馬鹿真面目に受け取ったのか、気味悪そうに慄くダガンをけらけら笑う。打てば響くようなダガンの反応が、アステラは大好きだった。
ひとりきりで死ぬと思っていたアステラを毒から助け、頭を撫でてくれた、優しい人魚。十年以上ずっと、どこにいっても、ダガンだけがアステラの友人で居続けてくれた。
何をしてでもか細い縁を繋ぎたかった。そんな浅ましい自分を、ダガンは許して受け入れてくれた。
「俺さあ、もう死んでもいいや」
ゆっくりと目を細めて、アステラは呟く。体がぽかぽかとして、今まで経験したこともないくらい幸せな気分だった。
二十二になったら死ぬ呪いも、愛する人に愛してもらえない呪いも、自分で望んで手にしたわけではない。けれど、こうしてダガンと旅ができて、慈しむことさえしてもらえるなら、なるほどたしかに呪いと言うより、イリヤの言った通り祝福だとさえ本気で思う。
穏やかな波の音が聞こえた。
あたたかな陽光が、心地良く体を包む。
静かな世界の中で、アステラの前にはダガンだけがいた。
いつか死ぬなら今死にたい。目を閉じて幸福感に浸っていたその時、前方からくぐもった呻き声が聞こえてきた。
目を開いた次の瞬間、視界に真っ赤な色が飛び込んでくる。
腹を切り裂かれたダガンが、虚ろな目をして崩れ落ちる様を、アステラは呆然と見つめた。
「ダガン!」
受け身ひとつ取ることなく、人形のようにダガンは床へ倒れ込んでいった。
血の海の中に、ダガンが力なく横たわる。体中を切り刻まれた痛ましい姿で、アステラのものだったはずの呪いの荊に身を蝕まれて。
その時になってようやく、アステラは自分の手足が自由に動く違和感に気がついた。
「なんで……っ」
慌てて自分の手足を見ると、そこにあったはずの呪いの印は影も形もなくなっていた。まるでそっくりそのまま、ダガンへと移ってしまったかのようだ。
美しい銀色の髪を赤黒く染めたダガンは、どれだけ体を揺さぶっても目を開かない。
「ダガン? ダガン、ダガン……! 嫌だ、いやだよ! 起きてくれ!」
冷たくなった体を抱えて、アステラは泣き縋りながら声を震わせる。
「なんで。どうして……?」
「――お前のせいや」
虚ろに目を開いて、ダガンの死体が喋り出す。青白い顔に憎しみを載せて、軽蔑も露わにダガンは冷たくアステラを断罪した。
「お前が俺を連れてきたから。海から引っ張り出したからこうなったんやろ。自分のことしか考えとらん自己中な人間が」
ひ、と喉を引きつらせ、アステラは尻もちをついて後ずさる。
嫌だ。聞きたくない。ダガンにだけは、そんな目で見られたくない。
「守れもせんくせに、取引なんて嘘をついて」
「ちがう。そんなつもりじゃなかった。俺は――!」
「何も違わへんやろが。お前のせいで俺は死ぬ」
耳を塞ぎたいのに塞げない。目を逸らしたいのに逸らせない。血の海に倒れたまま、ダガンは血まみれの姿それ自体で、アステラの罪を眼前に突き付けてくる。
「死んでもええと思うなら、はじめから無駄な足掻きなんざしんかったらよかったのにな。誰もお前なんか欲しがらへんわ」
恨み言を囁いたのを最後に、ダガンはとうとう動かなくなった。
海で生きていた美しい人魚の姿とはほど遠い、血に濡れた人間の姿のダガンを、アステラは震えながら見つめる。
「……ごめん」
涙混じりにアステラは呟いた。
「ごめん。巻き込んでごめん。痛い思いさせてごめん。一緒にいたいなんて、思ってごめん。……なあ、死ぬなよ。起きてくれよ、ダガン。もう迷惑、かけないから……!」
ダガンの肩を揺らそうと手を伸ばす。しかし、先ほど向けられた憎悪の視線を思い出して、触れる直前で手がぴたりと止まった。
触れる資格なんて、自分にはない。
食いしばった歯の隙間から、いやだ、と引きつるような声が漏れた。
「……置いていかないで。……き、……っ、嫌いに、ならないで、ダガン。俺を、捨てないで。ダガンがいないと、生きていけない。ごめん。ごめん……! 許してくれ……!」
がたがたと震えながら、アステラは喉を引きつらせて泣きじゃくる。
その時、不意に空から低い声が聞こえてきた。惨めに乱れた己の息に被せるように、優しい声がアステラの名を呼んでいる。
「――起きぃや、アステラ!」
ダガンの声に導かれるように、はっとアステラは目を開けた。




