8-3 やきもち
ダガンと唇を合わせるのなんて何度目かすら数えていないけれど、空気を送り込むためでもなければ、薬を飲ませるためでもない、ただのキスをするのは初めてだ。そう思った途端に、かっと頬に血が上った。
ダガン、と熱に浮かされたように唇を動かす。声が出なくてよかった。出ていたら、きっとひどく物欲しげな声になってしまっただろうから。
二度、三度と、軽く唇を離してはまた近づいて、夢でないことを確かめるように唇を重ねる。
震える息を吐くと同時に、ダガンの手がアステラの頬に添えられた。鋭く据わった、欲を滲ませる眼差しが心地よかった。呼吸を整えたいのに、自分の意思とは関係なく息が上がっていく。
もっと深く触れあいたい。
誘うように唇を開いた瞬間、アステラの頬からずるりと何かが這い出す気配がした。
「……っ!」
顔を歪めたダガンは、アステラの体から飛び出た白蛇の牙を、素早く自らの手で受け止める。みるみる腫れ上がるダガンの手を目にした瞬間、つい数秒前までアステラが感じていた幸福感と浅ましい興奮は、夢から醒めたかのように一気に引いていった。
『ダガン! 血が……!』
「なんやこいつ、空気読めへん蛇やな」
身を起こしたダガンは、手に食いつくイリヤの使い魔を忌々しげに睨みつける。己の手を咥えさせたまま、ダガンは懐に入れていたらしいサレの短剣で、容赦なく蛇の頭部を机へと縫いつけた。血とも油ともつかぬ黒い液体が、机の脚を伝って床に血だまりを作っていく。
寝台へ戻ってきたダガンが、再度アステラへと手を伸ばす。まだ腫れの引ききっていない手を見た瞬間、アステラはびくりと肩を跳ねさせた。
――触れてはいけなかった。こんなことをするべきではなかった。
これ以上ダガンに甘えるべきではないと、嫌というほどイリヤに思い知らされたばかりなのに。
ダガンの手を避けたアステラは、少しでも距離を取ろうと、ろくに動かぬ体を引きずって身を離す。
「……なんで逃げるん? 嫌やったか」
気落ちした様子のダガンを見ると、胸が締めつけられそうになった。そんなわけがないだろうと反射的に言いそうになり、そんな自分を慌てて戒める。
動かぬ蛇に視線を向けながら、アステラは取り繕うように唇を動かした。
『違うんだ。……ごめんな。痛いよな。海魔の里で喰われかけた時にも、あの蛇、ああやって門番さんに襲い掛かってたんだ。獲物を守ろうとしたんだと思う』
「喰われかけた? 聞いてへんぞ」
ダガンの目元が不機嫌そうに引きつった。しかし、この場を乗り切ることでいっぱいいっぱいだったアステラは、己の失言に気づかない。作り笑いをダガンが好まぬことすらすっかり忘れて、アステラはへらりと笑って唇を動かし続ける。
『変なことしてごめん、ダガン。人恋しくなってたのかな。ずっと忙しかったし、ハラハラしっぱなしだったから……多分、気の迷いってやつ! 忘れてくれ』
「残念やけど、俺は気ぃ迷わせてへんし、忘れる気もあらへん」
低く呟いたダガンは、アステラの肩に手を掛けると、そのままアステラを押し倒すようにしてのしかかってきた。
上から見下ろしてくるダガンの顔は、ただでさえ剣呑な顔立ちに分かりやすく不機嫌を滲ませてはいるものの、見たこともないほど真剣だった。冗談にしてくれる気はないのだと、その顔を見れば分かってしまう。羞恥と焦りで、目を合わせていられなくなった。
『……ダメだ』
「何がダメなん」
『こういうことは、ほいほいするものじゃないって言ってたじゃんか』
「遊びでやることやないって意味で言うたんや。俺は本気や。何もふざけとらん」
その声がダガンらしくもなく真面目なものだから、じりじりと頬が熱くなっていく。
「俺が知りたいのは、お前が嫌かどうかってことだけや。……なあ、嫌やないなら逃げるな、アステラ。頼むから」
アステラの顔の両脇に腕をつき、懇願するようにダガンが囁く。
これではまるで、アステラがダガンに迫られているようなものだ。夢にしたってあまりに都合が良すぎるし、心臓に悪い。その上、ダガンは答えを促すようにアステラの唇を親指で撫でてくるものだから、額に汗まで滲んできた。
どうせもう打つ手もないのだ。呪いは広がり続けるし、イリヤから逃げる手段も残っていない。あと数日で死ぬ身なら、全部忘れてこのままダガンに最後の思い出をもらうことくらい許されるのではなかろうか。
――それでもダメだ。
自分勝手な欲に傾きかける心を、どうにかこうにか押さえつけ、アステラは喉を引き絞るようにして言葉を紡ぐ。
『い、嫌なわけないだろ。俺からしたんだから。でもこれ以上は、きっとイリヤが怒る。もうこれ以上、ダガンに痛い思いをさせたくない。だから――』
「――なんで今あいつが関係あんねん」
不機嫌そうにダガンが言葉を被せてくる。
『なんでって、だって……』
ダガンがアステラを庇おうとするたび、イリヤは苛立ちを露わにしてダガンを傷つけた。呪いに侵された体ではろくにダガンを守ることすらできない以上、アステラにできることは、ただこれ以上イリヤの怒りを買わないように従順に振る舞うことだけだ。
『俺はイリヤの物だから』
屈服させられると同時に言わせられた言葉が、当たり前のように口からこぼれ落ちてきた。アステラの顎に添えられていたダガンの指が、ぴくりと跳ねる。
「……腹立つわあ」
『え? ……っ!』
ぐっと顎を掴まれ、荒々しく唇を塞がれる。
逃げようにも、がっちりと抱き込まれた頭は動かせない。その強引さにアステラは目を白黒とさせながら、二色の瞳を戸惑いとともに見返した。苛立ちなのか、それとも違う何かなのか、普段よりも色を深めてギラギラと艶めくダガンの瞳が美しい。
うっかり見惚れかけた隙に、浅く開いたままの唇のあわいに、あたたかく湿った舌が触れた。慰撫するように緩く下唇をなぞったダガンの舌が、アステラの舌にそろりと触れる。
慌ててアステラはダガンの胸を押しのけた。
『ダメだって……!』
「なんでや。あいつは良くて俺はダメか?」
『違う、そんなんじゃない!』
「どうやろな。気持ちよさそうにしとったもんな」
皮肉げに頬を歪めたダガンは、もはや苛立ちを隠す気もないらしい。胸元を掴むアステラの手を強引に剥がして寝台に押しつけると、鋭い目つきでアステラを見下ろしてきた。
薬を飲ませろと回りくどい口実をつけてわざわざ近くに来させたことから始まって、したこともない昔話をしてみたり、詰めようとしたこともない距離を一足飛びで詰めようとしてみたりと、先ほどからダガンはどこかがおかしい。イリヤに殺されかけていた時でさえ剥がれなかった余裕が、今のダガンにはまるでないように見えた。
まるでイリヤに嫉妬しているかのようだ。
自惚れにもほどがあることを思った途端に、間違っても喜んでいいことではないと分かっていても、口元がにやけそうになった。
――求めてほしい。忘れないでほしい。ずっとそばにいてほしい。特別なのだと思ってほしい。
取り上げられないようにと心の底にしまいこんできた願いが、次から次へと顔を出す。
「舌出しぃや」
唇がぎりぎり触れない距離で、ダガンが小さく囁いた。力加減を忘れたように押さえつけてくる手はもちろん、切羽詰まって掠れた声さえも嬉しくてたまらない。
逡巡しながら蛇を見る。銀の刃で貫かれた蛇は死んでこそいないものの、かすかに尾を震わせるだけで、こちらを見る気力もないらしい。
アステラの視線の先を察したのか、「目なら潰した」とダガンが嘲るように言う。
「覗きたくても覗かれへんわ。あいつがどんだけ強い悪魔か知らんけどな、何でもかんでもできるわけやない」
心配せんでええ、と言い聞かせるようにダガンは囁いた。
その言葉に誘われるように、アステラはおずおずと唇を開き、わずかに舌を覗かせる。
まばたきをする間もなく、深く唇が重なった。




