第8章 妖怪博士
夏休みも終わりに近づいていた。
奨は、ひとりでダム湖の畔に来ていた。
湖面は、何事もなかったかのように静かだった。
久子ばあさんの涙。
オコゼの言葉。
河童の子供たち。
どれもほんの数日前の出来事なのに、夢だったような気がした。
奨は、黙って湖面を見つめていた。
そのときだった。
背後から声がした。
「君……ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
奨は思わず身構えた。
その男は、どう見ても観光客には見えなかった。
年齢は40歳ぐらい。
くたびれたジャケットに、色あせたシャツ。
首からは古いカメラを下げ、肩には分厚いノートや地図が詰まった帆布のショルダーバッグをかけている。
足元は、泥のついたトレッキングシューズだった。
「私は……こういう者なんだが。」
そう言って、男は名刺を差し出した。
〈柳瀬民俗文化研究所
所長
文化人類学博士
柳瀬信夫〉
「文化人類学……ですか?」
聞きなれない言葉に、奨は少し戸惑った。
「まあ、簡単に言えば、人が何を信じて、どう生きてきたかを調べる仕事だね。」
柳瀬はにこりと笑った。
だが、その目は妙に鋭かった。
「君、この辺りの子だよね。」
「はい。」
「この湖ができる前の村について、何か聞いたことはないかな。」
奨は、思わず湖面を見た。
鬼火の灯る村。
古い家々。
金色の懐中時計。
「……学校で習ったくらいです。」
奨は、できるだけ平静を装って答えた。
柳瀬は返事をせず、手帳を開いた。
そこには、古い地図の切り抜きや、
聞き取り調査らしいメモがびっしりと書き込まれていた。
「この辺りの年配の方に話を聞くとね……。」
柳瀬はページをめくった。
「夜になると湖面に灯りが見えるとか。
水の底から祭り囃子が聞こえるとか。
そういう話がいくつも出てくるんだ。」
柳瀬は、湖面に視線を移した。
「ダムの底に沈んだ村というのは、日本各地にある。
けれど、この湖には少し変わった伝承が残っているんだ。」
奨は黙っていた。
「沈んだのは、人間の村だけではない、という話だよ。」
「いえ……知りません。」
柳瀬は、奨の目をじっと覗き込んだ。
「君は、八百比丘尼という名前を聞いたことがあるかな?」
「いいえ。」
「青梅の塩船観音を建てたという伝承がある。海から遠く離れたこの土地に、なぜ人魚の伝承が残っているのか。不思議だと思わないかい。」
「……知りません。」
「ふうん。そうかい。」
柳瀬はそう言うと、奨の肩に手を置いた。
その手からは、妖怪の気配はしなかった。
(人間だ。でも、なんでここまで調べているのだろう。)
「何か、思い出したことがあったらこの名刺の番号に電話してくれ。いつでも構わない。
……では、また会いましょう。」
それだけ言うと、柳瀬は集落の方に向かって歩いていった。
奨は釈然としないまま、ダム湖の畔を歩いた。
そこへ向こうから河田がやってくるのが見えた。
「柳瀬信夫?」
河田は、その名前を聞いた途端、顔をしかめた。
「知ってるんですか?」
「名前だけな。最近、この辺をうろついてる変な学者がいるって聞いてた。」
河田は湖の方を見た。
「あいつには、あんまり余計なことを話すな。」
「悪い人なんですか?」
「悪い人かどうかは知らない。」
河田は、いつになく真面目な顔で言った。
「でも、知りたがる人間ってのは、それだけで厄介なんだよ。」
奨は、手の中の名刺を見つめた。
紙切れ一枚のはずなのに、それは妙に重たく感じられた。
【次回予告】
「第9章 文化祭」
夏休みが明け、日常が戻ってきた。
「今はもう21世紀なんだからな。お前も、お化けだの妖怪だのは卒業した方がいいぞ。」
文化祭の準備の最中、担任・安倍先生は奨の絵を鼻で笑う。
「あの先生には気をつけたほうがいい。」
河田はそう忠告する。




