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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第7章 懐中時計

やがて二人は、広間の奥にある古い蔵に着いた。

重い扉が開く。


古い箪笥。

ひびの入った茶碗。

子供用の下駄。

文字の薄れた手紙。

錆びた農具。

誰かの名前が書かれた木箱。


「これらは……?」

「村人たちが置いていったものです。」


オコゼは静かに答えた。


「忘れていったものもあります。持っていけなかったものもあります。いつかお返しする日が来るかもしれないと思って、ここで大切に預かっております。」


奨(しょう)は何も言えなかった。

オコゼは蔵の奥へ進むと、棚の一つから小さな木箱を取り出した。


「これでございます。」


奨はその木箱をそっと受け取った。

小さな箱のはずなのに、ずっしりと重く感じた。

箱の中には、金色の懐中時計が入っていた。

70年近い時が過ぎているはずなのに、表面はきれいに磨かれていた。

まるで、誰かが手に取る日を待っていたかのように。


オコゼは、昔を懐かしむように目を細めた。


「久(ひさ)ちゃんは昔、この辺りでよく遊んでいました。

まだ小さかったのに、私たち妖怪の姿を見ても、少しも怖がりませんでした。」


オコゼは小さく笑った。


「久ちゃんには、仲の良い男の子がいましてね。それが、後に久ちゃんの旦那になる方でした。

頭のよい子で、東京の大学を出たのだと、久ちゃんは嬉しそうに話していました。

その時計は、大学を卒業した時にもらったものだそうです。」


奨は、箱の中の懐中時計をそっと見つめた。

湖畔で寂しそうに湖を見つめていた久子(ひさこ)ばあさんの姿が思い浮かんだ。


「久ちゃんに伝えてください。私たちはまだ、ここにいる。この集落は、なくなっていないのだと。」



蔵から出ると、入り口に長が立っていた。


「せっかく来られたので、この村を見ていかれませんか。」


奨はうなずいた。

長とオコゼに案内され、奨は湖底の村を歩いた。


鬼火に照らされた古い商店があった。

店先では、背中の曲がった老婆が水草を広げ、丁寧に干している。

細い水路では、河童の子どもたちがはしゃぎながら遊んでいる。

奨の姿を見ると、子どもたちは一瞬だけ目を丸くし、それから慌てて頭を下げた。


「八百(やお)比丘尼(びくに)様の御血筋だって。」

「人間みたい。」

「でも、水の匂いがする。」


そんな小さな声が聞こえてきて、奨はどう反応していいかわからず、曖昧に笑った。


村の外れには、古い木造校舎が残っていた。

かつて人間の子どもたちが通っていた学校だという。

今は、妖怪の子どもたちがそこで文字を習っているらしい。


黒板には、少し歪んだ字で、ひらがなが書かれていた。


〈みずのうえにも、せかいがある。〉


奨はその言葉を、しばらく見つめていた。


井戸も、石段も、道端の地蔵も、人間たちが残していったものがそのまま使われていた。

頭上を見上げると、暗い湖の水面が天井のように揺れている。


奨は、ずっと気になっていたことを長に尋ねた。


「どうしてここには、このように空気があるのですか?」


長は少しだけ目を細めた。


「八百比丘尼様のおかげでございます。」


長は、村の中央にある小さな祠の方を見た。


「この村が沈むとき、八百比丘尼様が結界を張って下さいました。人間の村は水の底に沈みましたが、私たち妖怪の村だけは、こうして残されたのです。」


長は静かに頭を下げた。


「八百比丘尼様が、私たちに居場所を残してくださいました。」



湖底の村でしばらく過ごし、地上へ戻る時が来た。

長とオコゼ、そして何人もの妖怪たちが、村の入口まで見送りに集まっていた。

長は奨に向かって、深く頭を下げた。


「あなたは八百比丘尼様の御血筋でございます。」


そして、ゆっくりと言葉を続けた。


「それに、人間の世界にも、妖怪の世界にも足を置くことのできる方です。」


奨は黙って長を見つめた。


「どうか、そのことをお忘れなきよう。また、いつでもお越しください。」


奨は懐中時計の入った木箱を胸に抱え、うなずいた。


「はい。……また来ます。」



奨が湖面に顔を出したとき、空はすっかり明るくなっていた。

さっきまで自分がいた村の灯りは、もうどこにも見えなかった。

地上では、久子ばあさんは年老いた人間だ。

けれど、この水の底では、今でも「久ちゃん」だった。


服を着替え、奨が集落中央の広場を通りかかったとき、ちょうど久子ばあさんが湖の方へ歩いていくところだった。


「おや、奨ちゃん。こんな朝早くにどうしたんだい。」


奨は黙って、持っていた木箱を差し出した。


「これ……。」


久子ばあさんは、不思議そうに箱を受け取った。

そして、ふたを開けた瞬間、絶句した。


「……まだ、残っていたのかい。」


その声は、かすかに震えていた。

久子ばあさんは、しわだらけの手で懐中時計をそっと包み込んだ。

何度も何度も、表面をなでる。


「あの人の時計だよ……。本当に、あの人の……。」


奨は、オコゼに託された言葉を思い出した。


「おばあちゃん。」

「ん?」

「伝えてほしいって言われました。」


久子ばあさんは、ゆっくり顔を上げた。


「私たちはまだ、ここにいる。この集落は、なくなっていないのだと。」


久子ばあさんは、しばらく黙っていた。

それから、ぽろぽろと涙をこぼした。


「そうかい……。」


何度もうなずきながら、懐中時計を胸に抱く。


「まだ、いてくれたのかい……。」


奨は何も言えなかった。

久子ばあさんは涙を拭うと、少しだけ笑った。


「あの村にはね、優しいもんも住んでたからね。」


奨は、はっとした。


「知ってたんですか。」


久子ばあさんは答えなかった。

ただ、湖の方を見つめていた。


「子どもの頃のことなんて、夢だったのか本当だったのか、もうわからないよ。」


久子ばあさんは、懐中時計をもう一度見つめた。


「でも、あの子たちは、たしかに優しかった。」


少し離れたところで、誰かがこちらを見ていることに気づいた。

河田(かわだ)だった。


「河田さん……。」


奨は久子ばあさんから離れると、河田に近づいた。


「なんだ。」

「湖底の村、知ってますか?」


河田は、きょとんとした顔をした。


「知ってるも何も……。」


そして、当たり前のように言った。


「あそこ、昔から俺たちの遊び場だぞ。」


奨は河田を見つめた。


「……なんで教えてくれなかったんですか?」

「聞かれなかったからな。」


河田は悪びれもせずに笑った。


「あそこ、いいぞ。夏は涼しいし、鬼火の灯りで夜でも泳げる。」

「いや、そういう問題じゃなくて……。」


奨は大きくため息をついた。

【次回予告】

「第8章 妖怪博士」


「沈んだのは、人間の村だけではない――。」


湖底の村から戻った奨の前に、一人の文化人類学者・柳瀬(やなせ)信夫(のぶお)が現れる。

妖怪伝説を追い続けるその男は、八百比丘尼の名まで知っていた。


「知りたがる人間ってのは、それだけで厄介なんだよ。」


奨は、人間たちの思惑に初めて向き合うことになる。

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