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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第6章 湖底の村

夏休みの終わりごろだった。

奨(しょう)はスケッチブックを片手に家を出た。

せっかくの夏休みなのだから何か描こうと思ったのだが、これといって心を動かされる風景が見つからない。

気づけば、ダム湖の畔まで来ていた。

湖畔の石のベンチに腰を下ろし、なんとなく湖面を見つめていた。


「おや、奨ちゃんじゃないかい。」


突然、後ろから声をかけられた。

振り返ると、同じ集落に住む久子(ひさこ)ばあさんが立っていた。


久子ばあさんは、奨が物心ついた時からの顔なじみだ。

思い返してみれば、その頃からずっと変わらずおばあさんだった。


久子ばあさんは奨の隣に腰掛けると、同じように湖面を見つめた。

そうして、誰に言うともなく、ぽつりとつぶやいた。


「あの水の下に、私の故郷があるんだよ。」


70年近く前、このダムが造られたとき、いくつもの集落が水の底に沈んだ。

そのことは、この辺りに住む子供たちなら誰もが小学校で習う“歴史”だった。


「おばあちゃん、あそこに住んでたの?」

「あの頃は、大勢住んでいた。賑やかだったんだよ。」

「へえ。」

「行けるものならもう一度、行ってみたいねえ。」

「それはさすがに無理だよ。」


久子ばあさんは、思い詰めたような表情で言った。


「湖の底に、じいさんの形見の懐中時計を置いてきてしまったんだ。

本当は、沈む前に取りに行くつもりだったんだよ……。」



久子ばあさんと別れてからも、奨の頭の中は、聞いたばかりの話が残っていた。


――自分の力を、他の人に役立てないとだめよ。


八百(やお)の言葉が、耳の奥で響いていた。


翌朝。

奨は水着姿になると、ひとりダム湖の畔に立った。

今まで、誰かを助けるために無我夢中で水に飛び込んだことはある。

だが、そうではなく、自分の意志で水に入るのは初めてだった。


奨は静かに息を吸うと、湖へ飛び込んだ。


水の中でも、息をすることができる。

もはや当たり前になりつつあった。

自分の意のままに、水中を進む。


奨は目を凝らして、湖の底を見つめた。


かつての集落が、そこには残されていた。

傾いた鳥居。

屋根だけを残した民家。

泥に半ば埋もれた石段。

かつて道だったらしい細い筋。


その合間を縫うように、白い花が点々と続いている。

それは白椿だった。

水底のさらに奥へと、

まるで、彼を導くかのように一筋の道を作っていた。


奨は今度は迷わなかった。


遠くに灯りが見えたような気がした。

巨大な水草が生い茂り、水の流れに微かに揺れている。

その奥で、ぼんやりとした光が揺らめいていた。


奨は、その灯りに向かって泳いでいった。

灯りは少しずつ大きくなってくる。

やがて、目を開けていられないほどの眩しさになった。

奨は思わず、目を閉じた。

その瞬間、水の抵抗が消えた。

体が重くなる。

次の瞬間、奨は下に向かって落ちていた。

そして、気づくと地面に立っていた。



そこは、どこかの集落の広場だった。

周りには、いくつもの古びた建物が建っている。

頭上のはるか上には、暗い水がゆらゆらと揺れていた。


(……ここは、いったい。)


奨はしばらく動けなかった。


そのとき、誰かの視線を感じた。

目の前の家の横。

暗がりから、誰かに見られている。


「……誰?」


奨は思わず、そこに向かって声をかけた。

しばらくして、声がした。


「お前こそ誰だ。何の用があって来た?」


姿は見えない。

けれど、確かに誰かがそこにいる。

奨は見えざる声に向かって答えた。


「俺は、渕上(ふちがみ)奨だ。

ここに探し物があって来た。」

「ふちがみ……しょう……?」


途端に、暗がりのあたりがざわめきだした。


「渕上って、あの……?」

「いや、まさかね。」

「でも、それなら……。」


再び、静けさが戻る。


ややあって、いくつかの黒い影が広場に姿を現した。

最初、それらは大小様々な影に見えた。

だが、奨の前に進み出るにつれて、ひとつひとつが少しずつ人の姿に見えてくる。

背の低い者。

背中の曲がった者。

長い腕をだらりと垂らした者。


その中の一つが、奨に問いかけた。


「ひょっとしてあなたは、八百比丘尼(びくに)様の御血筋の方かな?」

「俺の、ひいおばあちゃんです。」


その瞬間、影たちの気配が一変した。


「八百比丘尼様の曾孫……!」

「これは失礼いたしました。」

「知らなかったこととはいえ、とんだご無礼を。」

「何しろ、ここは滅多によそ者がくるような場所ではないもので。」


黒い影たちが、一斉に小さくなったように見えた。

どうやら、みなひれ伏しているらしい。

奨は慌てて言った。


「いえ、そんな。顔を上げてください。

すごいのはひいおばあちゃんで、俺ではないんで。」

「いえ、その血を引いておられるというだけで、我らには十分でございます。」



奨は、小さな和室に通された。

部屋の中は、いかにも昔の日本間といった趣だった。

70年前から、そのまま時が止まっているように見える。

奨が部屋に入ると、ふっと室内が明るくなった。

天井を見上げると、小さな火の玉が空中に浮かび、ゆらゆらと揺れている。

思わず見入っていると、案内してくれた男が言った。


「それは、鬼火です。この水の底の集落には電気は来ておりませんので、こうして灯り代わりにしているのです。」


奨は勧められるままに、畳に敷かれた座布団に腰を下ろした。


「私が、この集落の長でございます。」


着流しの和服を着たこの男は、見たところ、ごく普通の中年男性だった。

ただ、頭頂部だけが妙に広く丸く禿げ上がっている。

よく見ると、手の指の間には水かきもあった。

その視線に気づいたのか、長は言った。


「……お恥ずかしい話ですが、なかなか完全な人間の姿を取ることができませんで。何しろ、人間様にお会いするのは数十年ぶりですから。背中には甲羅も残っております。」

「あなたは、ひょっとして……。」

「そうです。私は河童でございます。」


奨は思わず尋ねた。


「ひょっとして、河田(かわだ)さんと同じなんですか?」


その瞬間、男の眉がぴくりと動いた。


「失礼な。」


男は少し語気を強めた。


「あいつらと一緒にしないでいただきたい。あいつらは自分たちを“川天狗”などと名乗り、河童ではないと言い張っているのです。」


男は、苦々しげに首を振った。


「まったく。河童の誇りはどこに行ったのか……。」


奨は、前に河田がまったく同じような顔で「河童なんかと一緒にするな」と言っていたことを思い出した。

どうやら、この話題には触れない方が良さそうだ。


「それで、ここへ何をしにいらっしゃったのですか? 先ほど、何かを探しているとおっしゃっていましたが。」

「実は……。」


奨は、久子ばあさんから聞いた話をした。

河童の長は、しばらく黙って聞いていた。


「そうですか……あの久ちゃんが、今じゃばあさんなんですか。」


長は、ゆっくりと息を吐いた。


「人間の時間は、経つのが早い。」

「久子ばあさんを知っているんですか。」

「もちろんでございます。私たち妖怪は、人間たちの暮らしを、ずっとそばで見てきました。」


そう言って、長は入り口に控えていた者に声をかけた。


「オコゼを呼んできてください。」


しばらくして、和服姿の女性が部屋に入って来た。

小柄で、どこか魚を思わせる顔立ちをしている。

だが、その所作は静かで、丁寧だった。


「この子が、久ちゃんの懐中時計を探しておられる。あんた、覚えているか。」

「はい。」


女性は、奨に向かって深く頭を下げた。


「こちらへどうぞ。」


奨はオコゼの後について部屋を出た。


先ほどの広間を抜け、奥へと進む。

その途中、広場の片隅に白い花が咲いているのが見えた。

八百比丘尼の祠のそばに咲いていた花だった。


小さな祠が目に入った。

そこの石碑に、見覚えのある紋が刻まれている。


森の中の祠。

自分の家の鬼瓦。

八百の家の鬼瓦。

そのすべてに、同じ紋があった。


「……ここにも。」


奨は思わずつぶやいた。


「これは……ひいおばあちゃんの紋ですよね。」

「はい。八百比丘尼様の御紋でございます。」


オコゼは、祠に向かって静かに頭を下げた。


「この村が湖の底に沈んだとき、八百比丘尼様が私たちを守ってくださいました。あの祠は、その御礼として建てられたものです。」


オコゼは再び歩き出した。


「それにしても、八百比丘尼様の血筋の方がここへ来られるとは。

あなたのひいおじいさまも、小さいころから存じておりますよ。」

「え、ひいじいちゃんを?」

「ええ。まさか、あの子が八百比丘尼様と夫婦になるとは、誰も思っておりませんでしたが。」


あのひいおばあちゃんが、この村では深く尊敬されている。

奨にはそのことが、まだ信じられなかった。

【次回予告】

「第7章 懐中時計」


湖底の村で奨が見たのは、70年の時を止めた妖怪たちの暮らしだった。

託された懐中時計とともに届けられる、妖怪たちから久子ばあさんへの想い。


「私たちはまだ、ここにいる。この集落は、なくなっていないのだ。」


奨は、人間と妖怪を結ぶ自らの役割を少しずつ知っていく。

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― 新着の感想 ―
久子ばあさんの懐中時計を探すため、意を決して湖へと飛び込んだ奨。 人の役に立たないとダメ、この言葉で動く姿は真っ直ぐで好きですね。 水底を導くように咲く白椿、水の抵抗が消えて辿り着いた昭和の空気漂…
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