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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第26章 百鬼夜行

井上(いのうえ)が懐から紐のようなものを取り出した。

低く呪文を唱える。

すると紐は生き物のようにうねりながら柳瀬(やなせ)へと飛びかかり、その体に巻き付いた。


「くっ……。」


柳瀬は紐を振りほどこうとしたが、びくともしない。

井上は小さくため息をついた。


「まったく、手間取らせてくれましたね。」


そして、体育館の中央へ向き直る。


「さて、そろそろ仕上げに入りますか。」


不意に、あたりが闇に包まれた。

昼間だというのに、まるで夜になったかのようだった。


ヒョー。

ヒョーヒョー


笛を吹くような不気味な声が空に響く。


「鵺(ヌエ)か……。つまらん真似を。」


井上は動じない。

さらに、大地が激しく揺れた。

体育館の窓ガラスが震える。


「今度はナマズか。

なあに、限界がある。」


カァーカァー。


鋭い鳴き声が響いた。

窓の外を、無数のカラスが飛び交う。

その中に、カラス天狗たちの姿があった。

先頭にいた長老の天狗がつぶやいた。


「八百(やお)比丘尼(びくに)様の頼みじゃ、断れんな。高尾からここまで、ずいぶんかかったが。」


井上は窓の外をじっと見つめた。


「結界がある以上、中には入れまい。」


懐から大量の呪符を取り出した。


「まずは中を片付けましょう。」


無数の呪符が宙へ舞った。

紙片は次々と姿を変え、式神となって体育館の奥へ向かっていった。


そのとき、体育館の扉が押し開かれ、大量の水が吹き込んできた。

床が一瞬で水浸しになる。

式神たちは水を浴びると、次々と床へ落ちていった。


「なに!」


井上が振り返る。

体育館の入り口には、大勢の人影があった。

その先頭に立つのは河童の長だった。


「呪符も式神も、元をたどれば紙だが……。」


河童の長が笑う。


「……こうも簡単に効くとはな。」


長の隣に背の高い金髪の少年が立っていた。

奨(しょう)は見覚えがあった。


「キース……!」


水泳大会で会った半魚人の少年だ。


「また会ったな。」


キースは軽く手を上げた。


「まだだ。」


井上が印を結ぶ。

空気が震えた。

次の瞬間、掌に白い光が集まる。

それは円となり、衝撃波となって放たれた。


ドンッ!


河童たちが吹き飛ぶ。

カラス天狗たちも空中で体勢を崩した。


その隙を、真吾(しんご)は見逃さなかった。


「今だ!」


倉庫の扉が勢いよく開いた。

真吾を先頭に、生徒たちが飛び出す。


景吾(けいご)。

小塚(こづか)。

河田(かわだ)。

三枝(さえぐさ)。

山倉(やまくら)。

涼子(りょうこ)。

そして、奨。

全員が一斉に井上へ飛びかかった。

それでも井上は動じなかった。


「無駄です。」


井上は静かに両手を上げ、再び印を結ぶ。


「何人来ようが、同じことです。」


そのときだった。


シュッ。


鋭い音が響く。


「なに?」


井上の右腕に、白い糸のようなものが巻きついた。

さらに、左腕。

両足。

胴体。

次々と糸が飛び、井上の体を絡め取っていく。


「これは……蜘蛛の糸!?」


井上が顔を上げた。

体育館の梁の上。

そこには、一人の男子生徒が張り付いていた。


「土田(つちだ)さん!」


奨が思わず声を上げる。

土田正人(まさと)は、いつもの不機嫌そうな顔のまま、井上を見下ろしていた。


「だから嫌だったんだよ。」


吐き捨てるように言う。


「俺は静かに暮らしたいだけなんだ。」


土田の指先が動くたび、糸はさらに井上の体へ巻きついていった。


「普通に学校行って、普通に卒業して、普通に生きていきたかった。」


井上は必死にもがく。


「放せ……!」

「だけどな。」


土田は小さく舌打ちした。


「俺の学校を壊されるのは、もっと嫌なんだよ。」


糸は幾重にも重なり、ついには井上を完全に拘束した。


「くっ……。」


井上は身動きひとつできない。

奨は梁の上の土田を見上げた。


「土田さん……。」

「勘違いするなよ。」


土田はそっぽを向いた。


「別に、お前らを助けたわけじゃない。

俺はただ、静かに暮らしたいだけだ。」


「……まったく。」


入り口の方から聞きなれた声が響いた。


「うちの曾孫たちをいじめるんじゃないよ。」


体育館の入り口から、一人の女性がゆっくりと歩いてくる。

八百(やお)比丘尼(びくに)だった。


「ひいおばあちゃん!」


奨が叫ぶ。


「ずいぶん派手にやってくれたねえ。」


井上は何も答えない。

八百は後ろへ回ると、井上の首根っこをつかんだ。


「さあ、どうしてくれようかね。」

「放せ。」

「駄目だね。」


八百はにやりと笑う。


「これからお説教だよ。」


奨が思わず尋ねた。


「ひいおばあちゃん……まさか殺したりしないよね?」

「そんなことはしないさ。」


八百は肩をすくめる。


「若いのには、ちゃんと言って聞かせなきゃね。」


そう言うと、井上を引きずるようにして出口へ向かった。


「奨ちゃん。この人連れて港町に帰るから、後はよろしくね。」


河童の長が頭を下げる。


「荷物は後ほど私たちがお届けします。」

「じゃあね。」


八百は振り返った。


「海輝(かいき)や流聖(りゅうせい)ちゃんに、よろしく言っておいてね。」


八百は井上を連れて川の方へ歩いて行く。

河童たちも、そのあとに続いた。



奨は、あらためて体育館の中を見回した。

景吾と小塚は、さっきまで争っていたのが嘘のように並んで座り込んでいる。

河田は壁にもたれたまま、黙って八百たちを見送っている。

三枝が、柳瀬を縛っている紐のようなものを切ろうと苦心していた。

奨は、すぐ近くに立っていた涼子を見た。


「……終わったんだな。」


涼子が、小さくうなずいた。

そのとき、近くから声をかけられた。


「無事みたいだな。」


振り向くと、キースが立っていた。


「キース、来てくれたんだ。」

「ああ。ちょうど君のひいおばあちゃんに会うために、奥多摩に来てたんだ。」

「ひいおばあちゃんに?」


キースは、八百が去っていった方を見た。


「まさか、あの伝説の人魚が君のひいおばあちゃんだとはね。」

「知ってたの?」

「名前だけはね。」


奨も、八百の消えた方へ目を向けた。

やがて、夕暮れの空を一羽のカラスが横切っていった。

【次回予告】

「終章 黄昏」


井上礼二郎の脅威が去ってからも、奥多摩の日常は続く……。


生徒会長となった奨。

相変わらず騒がしい仲間たち。

そして、涼子と歩く夕暮れの湖畔。


人間と妖怪が共に生きる世界。

その先にあるものは――

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