終章 黄昏
「だから、その予算案では無理だと言っている。」
景吾が机を叩いた。
「無理じゃない。工夫が足りないだけだ。」
小塚も負けていない。
「いや、予算というものは――」
「だから発想が古いんだよ。」
生徒会室の空気が険悪になる。
「会長、どう思います?」
突然話を振られた。
「え?」
奨は窓の外から視線を戻した。
「会長、ちゃんと聞いてた?」
「ぼうっとしてるんじゃないよ。」
「まあまあ、その分俺たちがしっかり支えてやらないとね。」
隠神が苦笑した。
奨は再び、視線を窓の外に向けた。
奥多摩の山々が見える。
あの山のどこかに鵺がいる。
川には河童がいる。
高尾には天狗がいる。
港町には八百がいる。
そして今日も、人間たちのすぐ隣で妖怪たちは暮らしている。
井上礼二郎の脅威が去ったあとも、都立氷川高校の日常は続いている。
授業があり、
部活動があり、
生徒たちは笑い、
先生たちは叱る。
前と変わらない日常だった。
体育館で起きた出来事について、誰かが大声で語ることもなかった。
妖怪の血を引く生徒も、何も知らない普通の生徒たちも、先生たちも。
まるで、あの日の出来事も日常の一部だったかのように。
前生徒会長の大口真吾は、卒業を控え、今は受験勉強に勤しんでいる。
その弟の景吾は、生徒会長の奨の片腕として実務を取り仕切っている。
一部では“影の生徒会長”とも囁かれている。
小塚もまた、何かにつけ景吾と張り合いながらも、奨に協力している。
そんな不穏な生徒会を隠神が陰で見守っている。
河田はマイペースで、奨の良き相談相手だ。
柳瀬は、奥多摩の山や川をうろうろしている。
本人いわく、「自然を見て回っているだけ」らしい。
安倍先生は、以前より怪異の話にも耳を傾けるようになった気がする。
用務員の油谷は、毎日廊下をモップで拭いている。
奨は最近、彼が時折カラスに話しかけていることに気づいた。
キースも時々、奥多摩に遊びに来てくれる。
こんどは雪男や狼男の仲間も連れてくるそうだ。
山倉は今日もうるさい。
放課後に歌声が漏れてくるのは氷川高校の風物詩だ。
三枝は手芸部として頑張っている。
鋏捌きの見事さは、校外でも評判になっている。
土田は相変わらず不機嫌だ。
あの件での活躍についても、知らんぷりしている。
「俺は静かに暮らしたいんだ。」
もっとも、本人は絶対に認めないだろうが、以前ほど奨を邪険にすることはなくなった。
あの事件以来、小雨の周りには自然と人が集まるようになった。
本人は戸惑っているようだが、以前より教室で笑うことが増えた。
涼子と奨は、今でも毎日、部活後に一緒に帰っている。
変わったことといえば、悠人が2人を尊敬の目で見るようになったことぐらいか。
ある時、奨は八百に電話をかけた。
「井上さんはどうなったの?」
八百はあっけらかんと答えた。
「いまは部屋を掃除してるよ。この後は草むしりと、買い物に行ってもらう。」
「……陰陽師なのに?」
「陰陽師だからさ。」
「そんなもんなんですね。」
「そんなもんだよ。そうそう、この前は柳瀬も来たよ。」
「柳瀬さんが?」
「井上と顔合わせりゃ、喧嘩ばかりしてる。」
八百は楽しそうに笑った。
「なんだかんだで、あの2人は仲いいんだよ。」
ある日の午後、
奨はいつものようにダム湖畔を歩いていた。
冬の湖面は静かだった。
「何見てるの?」
振り向くと涼子が立っていた。
「別に。」
奨は少し笑った。
「変なの。」
涼子も同じ方向を見た。
西日が湖面に射し込んでいる。
「なんか、いいね。」
涼子は湖を見つめながら言った。
奨もうなずいた。
「そうだな。」
ふと、奨は思った。
そういえば、あの夢を最近見ていない。
海の底へ引きずり込まれる夢。
夏になるたび、
汗びっしょりで目を覚ましていた。
いつから見なくなったのだろう。
しばらく二人は黙っていた。
風が湖面を渡っていく。
「ねえ。」
「ん。」
「なんだか、普通だね。」
奨は、湖の向こうに連なる山々を見た。
「だって、それが奥多摩の日常だろ。」
風が吹いた。
西日に染まった湖は、ゆっくりと黄昏の色へ変わっていく。
遠くでカラスが一声鳴いた。
今日もまた、
妖怪たちは人間と共に生きている。
完
【作者メモ】
「妖怪たちの黄昏―森と人間のあいだで―」は、これにて完結です。
8月から約2か月半、全27回にわたって連載してきました。
妖怪たちの物語はひとまず幕を閉じますが、奨たちの日常はこれからも続いていきます。
いずれまた、彼らの物語を描くことができればと思っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




