第21章 覚醒
涼子が悠人を抱きかかえたまま熊から離れると、
あたりに満ちていた異様な冷気が、少しずつ薄れていった。
白く凍り付いていた木々から、水滴がぽたりと落ちる。
地面に張り付いていた霜も溶け、薄い靄が立ち上っていた。
やがて、熊はゆっくりと身を起こした。
身体を震わせると、一度だけ鼻を鳴らした。
そして、そのまま森の奥へ消えていった。
何が起きたのか。
誰も、何も言わなかった。
その翌日。
涼子は学校を休んだ。
次の日も。
その次の日も。
心配になった奨は、放課後、涼子の家を訪ねることにした。
涼子の家は、影ヶ沢の北外れにある。
幼い頃は何度か遊びにいったことがあったが、
いつの間にか足が遠のいていた。
山道を抜けた先にあるその家は、古い木造家屋だった。
まだ暑さの残る季節だというのに、家の周囲だけ空気がひんやりとしている。
玄関先まで来ると、奨は思わず腕をさすった。
戸を開けたのは、涼子の祖母だった。
白髪の老女。
だが、その目だけは不思議なほど澄んでいて、若々しかった。
祖母は、奨の顔を見るなり静かに言った。
「……よく来たね、人魚の子。」
「俺のこと……。」
「知ってるさ。ここには長く住んでるからね。」
祖母は静かに微笑んだ。
「涼子なら、奥にいるよ。」
リビングへ通され、しばらく待っていると、
奥の部屋からゆっくりと涼子が現れた。
毛布を肩まで羽織り、小さく震えている。
「涼子、大丈夫?」
奨が声をかけると、
涼子は青白い顔でうつむいた。
「……怖いの。」
「え?」
「自分が……怖いの。」
その声は、かすかに震えていた。
祖母が、静かに口を開いた。
「雪女とは、そういうものだよ。」
涼子は祖母を見つめた。
「守りたい時ほど、凍らせる。」
涼子は、毛布を握りしめながら尋ねた。
「私……人間なの?」
祖母は少し考えるように目を閉じたあと、静かに言った。
「2/3はな。」
少し間を置いて、続ける。
「純血の雪女は、もう私で最後だよ。」
涼子はうつむいた。
「じゃあ私、人間じゃないじゃん……。」
祖母は静かに涼子を見つめた。
「あんたは、あのまま熊に食われていれば満足だったのかい。」
涼子が顔を上げる。
「え……。」
「あの子を見捨てて、自分だけ普通の顔して生きていれば、それでよかったのかい。」
涼子は答えられなかった。
祖母は静かに続けた。
「雪女は、人を凍らせる妖怪だ。」
その目が、まっすぐ涼子を見る。
「でもね。誰かを守るために使った力まで、化け物扱いする必要はない。」
部屋に沈黙が落ちた。
そのときだった。
「俺も……。」
奨がぽつりと言った。
涼子が顔を上げる。
奨は少し迷うように視線を落としたあと、ゆっくり口を開いた。
「人魚の血を引いている。」
涼子が目を見開く。
「正直、まだよくわからない。」
奨は苦笑した。
「自分が人間なのか、妖怪なのかも。」
祖母は黙って奨を見ていた。
「でも……。」
奨は、涼子を見た。
「涼子が悠人を助けたのは、本当だろ。」
涼子の唇が小さく震える。
「あの時、俺、何もできなかった。」
奨は、自嘲するように笑った。
「だから……俺は、涼子のこと怖いとは思えない。」
そのとき、縁側の方から、のんびりした声が聞こえてきた。
「お邪魔するよ~。」
奨が振り返る。
そこに立っていたのは、曾祖母の八百だった。
「ひいおばあちゃん。」
八百は、サンダルを脱ぐと縁側から上がって来た。
涼子の祖母が、少し懐かしそうに目を細める。
「おや、八百さんじゃないか。ずいぶん久しぶりだね。」
「六花こそ、元気そうだね。」
八百は涼子を見ると、あっけらかんとして言った。
「熊一匹くらい凍らせたからって、そんな顔しなくていいのに。」
涼子は目を丸くした。
「よくないでしょ……。」
「大丈夫大丈夫。この人なんか、昔はもっと派手だったんだから。」
八百は涼子の祖母――六花を親指で指した。
「秋に突然吹雪が来たから、何事かと思って駆けつけたら、夫婦喧嘩の真っ最中だったことがあってねえ。」
「あれは、あの人が悪いんだよ。」
六花が、むっとした顔で言い返す。
だが、涼子には2人の軽口も届いていないようだった。
「……私、普通に生きたい。」
「妖怪ってのはね。」
八百は、ゆっくり涼子の前に腰を下ろした。
「自分でどうしていいかわからないから、怖いんだよ。」
静かな声だった。
「使いたくないなら、使わなくていいさ。
でも、昨日は必要だった。だから出た。それだけのことだよ。」
涼子は黙ったまま、八百を見つめていた。
「みんな、そうやって悩みながら生きてきたんだ。六花だってそうさ。」
六花は、何も言わず窓の外を見ていた。
「それにね。」
八百は、少しだけ笑った。
「その力が、誰かを助けることだってある。」
しばらく、静かな時間が流れた。
やがて六花が、窓の外を見つめたままつぶやいた。
「……八百さん。」
「ん?」
「雪の匂いが騒いでいる。」
八百は、静かに目を細めた。
「ああ。」
その表情から、笑みが消える。
「そろそろ始まるね。」
部屋の中を、ひんやりとした風が静かに吹き抜けた。
【次回予告】
「第22章 生徒会長選挙」
校内を二分する、生徒会長選挙。
狼と狐――二つの勢力に翻弄される奨だったが、ある出来事をきっかけに、思いもよらぬ運命を背負うことになる。
「みんな仲良くしましょう。」
その言葉は、学校を変えるのか。
それとも、新たな戦いの幕開けとなるのか。




