第20章 熊
「そこの枝、あっちへ運んどいてくれ。」
「オッケー。」
山の斜面の雑木林の中で若くはしゃいだ声が聞こえていた。
「おーいこっちこっち。ノコギリ持ってきて。」
ひときわ大きな声が朗々と響く。
都立氷川高校2年の山倉の声だ。
奨のすぐ脇で鎌を振るって下草を刈っているのは1年生の三枝。
その鎌さばきは見事で、みるみる草が刈られていく。
この日は氷川高校の奉仕活動の時間。
有志生徒による森林保全活動ボランティアが、影ヶ沢集落の裏山で行われていた。
ボランティアに参加していたのは、
山倉、三枝の他には、影ヶ沢在住の奨、涼子、河田。
その他にも何人かの一般生徒。
そして引率として3年生徒会長の大口だった。
河田は、刈った草を縄でまとめながら、周囲の山を見回していた。
「今日は静かだな。」
「いいことじゃないですか。」
奨が言うと、河田は微妙な顔をした。
「静かすぎる。」
そのときだった。
「せんぱーい!」
斜面の下の方から、小学生くらいの少年が駆け上がってきた。
影ヶ沢の集落に住む少年、悠人だった。
「危ねえぞ、走るな。」
河田が声をかける。
「へーきへーき。」
悠人は笑いながら、三枝の刈った草の山に飛び込んだ。
「うわ、すげえ!」
「こら、散らかすな。」
三枝が呆れた声を上げる。
その様子を見て、涼子が小さく笑った。
「悠人くん、今日も元気だね。」
「涼子姉ちゃん、川行こうよ!」
「あとでね。」
山倉が、大きく息を吸った。
「よーし、休憩にするか!」
その声が、山に反響する。
だが――。
奨は、その反響が妙に短かった気がした。
山が、声を返していない。
「……?」
山倉も気づいたようだった。
「変だな。」
「何がですか?」
「山彦ってさ、山の音の返り方で空気わかるんだよ。」
山倉は、少しだけ真顔になった。
「なんか今日、山が変だ。」
そのとき。
河田が、ぴたりと動きを止めた。
「……おい。」
低い声だった。
「みんな、静かにしろ。」
空気が変わる。
山の奥から、何かが枝を踏み折る音が聞こえた。
重い音だった。
ドサッ。
ドサッ。
土の匂いが濃くなる。
河田の顔色が変わった。
「……熊だ。」
やがて、黒い影が彼らのいる開けた場所に現れた。
胸元には月の輪が揺れている。
真っ先に動いたのは、生徒会長の大口だった。
彼はちょうどみんなの一番後ろにいた。
「みんな、動くな。熊は逃げると追いかけてくる。そのまま、ゆっくり後ずさりするんだ。」
大口は周囲を見回した。
そして、スマホを取り出したが、すぐに下ろした。
「畜生。電波、来てねえ!」
大口は、河田の方を見た。
「河田。みんなを頼む。」
「大口さんは?」
「俺が助けを呼んでくる……。絶対にみんなを走らせるなよ。俺が戻るまでまとまって動け。」
そう言い残すと、大口は熊から目を離さないまま距離を取り、森の出口へ向かった。
残された生徒たちは、誰も声を出せなかった。
熊は、ゆっくりと頭を動かした。
黒い鼻先が空気を嗅ぐ。
そのたびに、湿った獣臭が流れてくる。
悠人が、小さく息を呑んだ。
河田が低い声で言う。
「目ぇ合わせるな。」
だが、その声にもわずかに緊張が混じっていた。
熊はさらに一歩近づいた。
枝が、ばきりと折れる。
その瞬間。
悠人が後ろへ下がろうとして、斜面の石に足を取られた。
「うわっ――!」
小さな身体が転ぶ。
熊の頭が、ぴたりと悠人へ向いた。
熊の右手側にいた山倉が、左側の三枝へ目配せをした。
三枝が、わずかにうなずく。
「おーーーい!!」
次の瞬間、山倉が腹の底から声を張り上げた。
山全体が震えるような大音声だった。
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
まるで山そのものが叫んだようだった。
熊が、一瞬だけ足を止めた。
「今だ!」
山倉の声と同時に、三枝が地面を蹴った。
小柄な身体が、一気に熊の懐へ飛び込む。
三枝の鎌が鋭く振るわれた。
ヒュッ――
風が裂ける。
次の瞬間、熊の黒い毛が宙に舞った。
熊の肩口に、浅い裂傷が走る。
だが――。
熊は、まるで気にした様子もなかった。
低く唸る。
その重い唸り声だけで、三枝の顔色が変わった。
「うそ……。」
三枝が後ずさる。
「……切れない。」
熊はゆっくりと顔を上げた。
その黒い目が、まっすぐ三枝を見据える。
生き物としての格が違った。
その隙に涼子が、悠人のところへ駆け寄った。
悠人を抱き起そうとする。
「大丈夫、悠人君。」
「涼子姉ちゃん……。」
その声に気づいたのか、熊が再び悠人の方向を見た。
そして、ゆっくり2人の方へ歩みを進めた。
「涼子!」
――俺だって妖怪の末裔だ。
熊の気をそらすことぐらい。
奨は、熊に向かって飛び出そうとする。
だが――
河田がそれを制した。
「河田さん。止めないで下さい。」
「黙って見てろ。」
「え?」
「あいつなら、大丈夫だ。」
熊が、また一歩近づいた。
涼子は悠人を背中にかばい、その場から動かない。
黒い巨体が、二人の目の前まで迫る。
「きゃーー。」
その瞬間だった。
空気が、変わった。
奨の頬に、冷たいものが触れる。
吐く息が、白い。
そして2人の前の熊が動かなくなった。
「嘘……。何が起きたの。」
奨がすぐに涼子と悠人に駆け寄る。
熊を見上げると、全身が白く凍りついていた。
黒い毛には霜が張り、足元の草まで白く染まっている。
「……やだ。」
涼子が震えている。
「私、何したの……?」
河田は奨の耳元に囁いた。
「だから言っただろ。黙って見てろって。」
遠くから、人の声が聞こえてきた。
「こっちだ!」
「いたぞ!」
猟銃を持った猟師たちが、山道を駆け上がってくる。
その中には大口の姿もあった。
息を切らしながら、周囲を見回す。
「みんな、無事か!?」
だが、その言葉は途中で止まった。
目の前の光景を見たからだ。
白く凍りついた熊。
周囲に漂う冷気。
そして、震えながら悠人を抱きしめる涼子。
「……なんだ、これ。」
誰も答えなかった。
涼子だけが、まだ震えていた。
【次回予告】
「第21章 覚醒」
熊と遭遇したあの日から、
涼子は学校へ来なくなった。
心配した奨は、影ヶ沢の外れにある彼女の家を訪ねる。
「私……普通に生きたい。」
そこで語られるのは、雪女の血を受け継ぐ宿命。
そして、人間でも妖怪でもある者たちの、生き方だった。




