第2章 白椿
「お前は、人魚の血を引いている。」
祖父の語ったその言葉が、ことあるごとに奨の頭の中で繰り返された。
「奨、どうしたの? 暗い顔して。」
涼子が心配そうに声をかけてきた。
「いや、なんでもない。大丈夫。」
「昨日からずっと変だよ。」
「うん。ありがとう。」
放課後、奨は涼子と一緒に帰らず、ひとりで図書室へ向かった。
「おや、奨。珍しいな。」
司書の東田先生が声をかけてくる。
「先生、奥多摩の歴史について書いてある本ありますか?」
「郷土資料なら、このカウンターの裏の棚だよ。」
「ありがとうございます。ちょっと調べものを。」
表紙が茶色く変色した郷土史の本は、古い紙の匂いがした。
ページをめくると、奥多摩やその周辺には古くから数多くの妖怪伝説が伝わっていることがわかった。
もし昨日の出来事がなければ、奨もそれをただのお伽噺として読み飛ばしていただろう。
ヤマンバ。
カワワラシ。
雪女。
どれも、子供の頃に聞いたことある話だった。
影ヶ沢――奨たちが住む小さな集落。
そこにも多くの妖怪伝説があった。
そんな中で、奨は驚くべきひとつの伝説を見つけた。
奥多摩の隣の青梅にある塩船観音。
その寺は今から1300年前に全国を行脚していた八百比丘尼が観音像を安置したことが始まりだという。
八百比丘尼は白い椿を愛したことから、「白玉椿姫」とも呼ばれている。
(八百比丘尼!!
これが、おじいちゃんの言っていたひいおばあちゃんのこと……。)
奨が固まっていると、東田先生が声をかけてきた。
「奨、どうしたんだ?」
開かれたままのページを目にする。
「八百比丘尼か……。」
「先生、知ってるんですか?」
「そういえば、子供の頃に聞いたことがあるな。
八百比丘尼がこの辺まで来て、山の妖怪を鎮めたとかいう話だったかな。」
奨もまた、思い出していた。
幼い頃に、祖父からそのような話を聞かされていたことを。
——昔、妖怪同士の大きな争いがあって山が荒れ果てた。
村人が祈ると、川から人魚が現れ、妖怪たちの争いを鎮めたという――。
「その時に村人が建てた小さな祠が今でも残っているって聞いたな。」
「先生、それはどこですか?」
「さあ。たぶん、椿ノ平の山の中だと思うよ。」
椿ノ平は影ヶ沢の隣の集落で、東田先生が住む場所だ。
「なんでも伝説だと、その祠の周りには1年中白い椿が咲いているっていう話だ。」
「白い椿……。」
奨は、郷土史に載っていた「白玉椿姫」という文字をもう一度見つめた。
(行ってみよう。)
次の休日。
奨は朝から椿ノ平に向かった。
東田先生の言葉だけを頼りに、八百比丘尼を祀ったという祠を探す。
山道を外れ、草をかき分け、しばらく歩いた。
だが、それらしきものは見つからない。
気がつけば、思っていたよりもずっと奥まで来ていた。
(祠なんて見つかるわけないか……。)
諦めて帰ろうと思った、そのときだった。
視界の隅に、白いものが映った。
振り向く。
緑の木立の中、その一角にだけ白い花が咲いているのが見えた。
(……まさか。)
近づき目を凝らすと、それはまぎれもなく椿だった。
春に咲く椿が、この季節に花をつけているはずがない。
奨は椿に導かれるように歩み寄った。
椿の枝をかき分けると、その奥に——
小さな古ぼけた祠がひっそりと立っていた。
苔むし、掘られた文字は読み取れない。
だが、祠の正面上部に刻まれた模様に、奨はどこか見覚えがあった。
奨はリュックサックからスケッチブックを取り出すと、鉛筆で祠の紋を丁寧に写し取った。
昼前に家にたどり着き、玄関をくぐろうとしたとき、鬼瓦が目に入った。
そこに刻まれた渕上家の家紋――
奨はスケッチブックの絵と見比べた。
それは、まぎれもなく同じだった。
呆然と玄関前に立ち尽くす奨。
それに気づいた祖父が声をかけた。
「おい奨。どうした、早く入って来ないか。」
奨は祖父に絵を見せた。
「じいちゃん、これ。」
祖父はスケッチブックを受け取ると、しばらく黙って絵を見つめた。
「……そうだ。」
祖父は静かに言った。
「八百比丘尼を祀った祠だ。」
祖父は遠い目をした。
「……お前、あそこを見つけたのか。」
奨は川で悠人を助けた時のことを思い出した。
「俺、人魚の力があるなら……誰かの役に立てるんじゃないか。」
「やめろ。」
祖父は即座に答えた。
「でも――」
「二度と水に入るな。力を見せれば、必ず誰かに目をつけられる。
人魚は昔から狙われてきたんだ。」
会話はそれっきりだった。
数日後、奨はバス停の近くの湖の畔に座ってぼんやりと水面を眺めていた。
その湖はダムによってできたもので、昭和30年代にダムが作られた際にできたもの。
その際に、多くの集落が湖の底に沈んだ。
影ヶ沢に残る妖怪伝説の地の多くも、今ではその湖の下に眠っている。
そのとき、奨には水の中に何かがゆらめいているのが見えた。
目を凝らす。
白い何かだ。
水面に顔を近づける。
それは、揺らめきながらも確かにそこにあった。
「二度と水に入るな。」
祖父の言葉が頭に蘇る。
だが奨は、なぜかそこに行かなくてはならない気がした。
目を離そうとしても離せない。
白いものは、水の底から自分を呼んでいるようだった。
奨は水の中に手を差し入れた。
届かない。
(行こう。)
奨はそう決意すると、服を脱いでパンツ一枚の姿になった。
ベンチに服を置くと、
足からそっと水に入った。
息が苦しくない。
体が自由に動く――この前と同じだ。
奨はその白いものに向かって沈んでいった。
次第に近づいてくる。
奨は白いものに手を伸ばした。
触れた瞬間、それは水の中でふわりと花びらを震わせた。
白い花びら——
いや、違う。
一輪の白い椿だ。
数日前、山の祠の前で見たものと、まったく同じ花だった。
奨は周囲を見回した。
白いものは、一つではなかった。
あちらにも、こちらにも、小さな白い花が揺れている。
奨はさらに深く潜った。
驚いたことに、それらは水底に根を張るように咲いていた。
水底のさらに奥にも、白い花が点々と続いている。
まるでどこかへ導く道のように。
(これ以上は……。)
奨は首をかしげると、再び水面に向かって泳ぎだした。
陸に上がった奨は、着替えることも忘れ、手の中の花をじっと見つめていた。
落ちたばかりと思われる、まだ新鮮な白い椿の花。
(あれは……本当に見たのだろうか。)
そのときだった。
背後から視線を感じた。
振り返ると、ひとりの少年が奨を見ていた。
河田裕二……1学年上の先輩で、水泳部の少年だ。
河田はしばらく黙って奨を見ていた。
「奨。お前、ずいぶん長く潜っていたな。」
「……。」
「お前、どれくらい潜っていたかわかるか?」
「わからない。」
「5分以上だ。」
「……え?」
河田は声を落とすと、小さな声で囁いた。
「お前、普通の人間じゃないな。」
【次回予告】
「第3章 八百比丘尼」
「お前、何者だ?」
河田の問いに答えられないまま、奨は自分のルーツを探し始める。
頑なに口を閉ざす祖父。
それでも辿り着いた海辺の町で待っていたのは、「魔女」と噂される一人の女性だった。
その出会いが、奨の運命を大きく変えていく――。




