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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第1章 人魚の血

この国には、かつて妖怪がいた。

野山に、里に、あらゆる場所に妖怪たちは存在し、

長い年月、人々はそれを当たり前のものとして受け入れてきた。

だが、時代が下り、科学文明が発達すると、

妖怪たちは次第にこの世界の片隅へと追いやられていった。


やがて、人々の前から妖怪は姿を消した。

山奥へ去った者もいれば、

人と変わらぬ姿で町に暮らす者もいた。


ひょっとしたら、あなたのすぐそばにも妖怪はいるかもしれない。

「おはよー、奨(しょう)。」


その声に顔を上げると、

同級生の涼子(りょうこ)が教室に入ってくるところだった。


「おはよう。今日も暗い顔してるな。」

「なあに、第一声がそれ?」


奨とは小学校に入る前からの腐れ縁だ。

もっとも、そういうクラスメイトは他にも何人もいる。

田舎の小さな高校あるあるだ。


「暗くもなるよ、今日の体育水泳だって。」

「涼子、別に泳げるじゃん。」

「違う違う。今日みたいに日が照ってて暑いのが苦手なの。

わたし、すぐ水ぶくれできちゃうし。

奨はいいよなー。プール入らなくていいんだもん。」

「しょうがないだろ。耳の病気なんだから。」


涼子と談笑しながら、奨はポケットからリップクリームを取り出し、指先で弄んだ。


「でもまあ、プールは衛生的じゃないからな……。」

「本当に固いんだから。」


奨は子供の頃から、厳格な祖父に水に近づくことを禁じられていた。

なんでも内耳に問題があり、水圧でめまいが起きる可能性があるのだとか。

だからプールはもちろん、海水浴も一度もしたことがない。

体育の水泳の時間も、ずっと見学だった。

もっとも、どこか水を苦手に思っていた奨には、それがむしろありがたかった。


奨には、子供の頃から繰り返し見る夢があった。

海の中で溺れている夢だ。

足元を何者かにつかまれ、暗い海の底へと引きずり込まれていく――。

その手は、まるで自分自身の手のようでもある。

夏になり、プールや海水浴の話題が流れる頃になると、その夢は決まって現れる。

いつも汗びっしょりで目を覚ます。


(……まあ、いいか。)


奨は手にしたリップクリームを唇にたっぷり塗り付けた。


「またそれ塗ってる。唇だけいつもプルプルだよ。」


涼子が冷やかす。


「ちげーよ。俺が乾燥苦手なの知ってるだろ。」

「なのに、プール入れないんだよね。」

「ほっといてくれ。」



キーンコーンカーンコーン……


終業のチャイムが校舎に響いた。


東京都立氷川(ひかわ)高校――東京都内で最も西に位置する。

全校生徒は100人に満たない。


放課後、部員が自分一人しかいない美術部で、奨はキャンバスの前に座っていた。

何も描く気が起きないまま、下校時間までぼうっと過ごしてしまった。

仕方がないので道具を片付けると、奨は美術室を出た。


夕暮れの日差しの差し掛かる廊下を歩いていると、

ちょうど教室の中にいる涼子に気づいた。


「涼子、まだ部活?」

「ちょうどいま終わったとこ。」


涼子は金色に輝く楽器を机の上に置いた。


「それ何の楽器?」

「ユーフォニアムだよ。」


奨は何気なく、彼女のユーフォニアムに手を触れた。


「冷たっ!」

「え、大丈夫。」

「なんでこんなに冷たいんだ?」


涼子は答えず、ケースに楽器をしまった。


「奨、一緒に帰ろ。」



こうして一緒に帰るのは、昔から当たり前だった。

日差しから肌を守るため、涼子はこんな日でもカーディガンを着込み、しっかり日傘を差している。


奥多摩駅前からバスに揺られ、〈影ヶ沢(かげがさわ)〉の停留所で降りる。

そこから2人の住む集落までは、山道を10分ほど登る。


「や~い。カップルだ。」


小学生の頃はよくからかわれたりもしたものだが、さすがにもう慣れっこだ。

――一人を除いて。


ちょうど集落の入り口にある橋に差し掛かった時だった。


「あ、イチャイチャしてる~。だめなんだぞ、コウジョリョウゾクに反してるぞー。」


近所のいたずら小僧、小学校4年の悠人(はると)だ。

そう言うと、悠人は涼子の髪飾りをひょいとつかみ取った。

それは涼子が普段からつけている雪の結晶の形をした髪飾りだ。


「やめて。」


涼子が慌てて悠人の手を払おうとした瞬間だった。

悠人の指が、涼子の手に触れた。


「うわっ、冷てっ!」


悠人は思わず手を引っ込めた。

その拍子に髪飾りが指から滑り落ちる。


悠人は慌ててそれをつかもうとした。

雪の結晶の髪飾りは、

橋の欄干の外側へ転がっていく。


「あっ。」


悠人は反射的に身を乗り出した。


次の瞬間、

体が大きくよろけた。


「悠人君、危ない。」


涼子の声が、水音にかき消された。

ばしゃんと、大きな水しぶきがあがる。

悠人の体はそのまま水の中に沈んでいった。


それを見た瞬間、奨の体はもう動いていた。

悠人を追って川へ飛び込んだ。


水は思ったよりも流れが速い。

だが、不思議だった。

息苦しくない。

奨は悠人の腕をつかむと、その体を抱き上げた。

すぐに水面へ顔を出す。


「悠人君!」


涼子が身を乗り出し、悠人を引き上げる。

何度か咳き込んだ後、悠人はすぐに息を吹き返した。


「よかった……。」


ほっとしたように息をついた涼子が、ふと顔を上げる。


「髪飾りがない。」


涼子は慌てて川を見下ろした。


「どうしよう。おばあちゃんにもらった大事なものなのに……。」


奨は川の中に立ったまま、この様子を見ていた。

黙ってうなずくと、再び水の中へ潜った。


やがて、奨は水面に顔を出した。

その手には、小さな髪飾りが握られていた。


「奨、大丈夫だった?」

「うん。」


奨は髪飾りを差し出した。

だが、その表情には少し困惑した色が浮かんでいた。


「どうしたの?」

「……わからない。」


奨は首をかしげた。


「なんだか、変な気分なんだ。」



その夜。

夕食を終え、奨が部屋に戻ろうとした時だった。


「奨。」


祖父の声が背後からかかった。

振り返ると、祖父が居間に座ったままこちらを見ている。


「ちょっと来い。」


祖父に呼ばれるのは珍しいことではない。

だが、その声にはどこか硬いものがあった。

奨は黙って祖父の前に座った。

しばらく沈黙が続く。

やがて祖父が口を開いた。


「……今日、川に入ったそうだな。」


奨は眉をひそめた。


「どうしてそれを?」

「悠人の母親が礼を言いに来た。」


祖父は奨の顔をじっと見つめた。

そして、静かに尋ねる。


「どうだった?」

「……どうって?」

「水の中だ。」


祖父の目が鋭くなる。


「苦しくなかったか。」


奨は少し考え、正直に答えた。


「苦しくなかった。」


そして付け加える。


「それどころか、自由に動けた。」


祖父はゆっくり目を閉じた。

まるで、長く待っていた答えを聞いたかのように。


「……そうか。」


しばらくして祖父は言った。


「奨――

お前には、話しておかなければならないことがある。」


祖父はゆっくりと、語り始めた。


「どうして俺が、お前に水に入るなと言っていたか分かるか?」


奨は首を振った。


「お前には、人魚の血が入っている。」


奨は不思議と驚かなかった。

祖父は続ける。


「ひいばあさんを覚えているか?」

「……覚えてません。」

「そうか。お前はまだ小さかったからな。

ひいばあさんは、海が見える崖の上の家に住んでいた。」


奨の脳裏に、幼い頃の記憶がぼんやりと浮かんだ。

カモメの鳴き声、潮の香。

小さな頃、祖父に連れられて何度か行ったことがある。

だが――曾祖母の姿は思い出せない。

ただ、その家で、若い綺麗な女の人に遊んでもらったことだけを覚えている。


「ひいばあさんは八百(やお)比丘尼(びくに)と呼ばれている人魚だ。

800歳とも1000歳とも言われているが、俺も正確には知らん。」


祖父は静かに言った。


「お前は、その血を引いている。」


奨は考え込んだ。

祖父はさらに続ける。


「水に入るなと言ったのは、お前が平穏に生きるためだ。

水の中で自由に動けるとわかれば、誰かがお前の血に気づくかもしれない。」


祖父の声が低くなる。


「人魚の血だとわかれば、

お前を利用しようとする者もいるかもしれん。」


奨はようやく合点がいった。

子供の頃から何度も見てきた夢――

海の底へと引きずり込まれる、あの夢。

――あれは、本当に“引きずり込まれていた”のだろうか。

もしかしたら。

引き込んでいたのは、自分の方だったのではないか。


祖父は最後に言った。


「今日のことは絶対に人に言うな。

聞かれたら苦しかったと答えておけ。」


そして、静かに付け加える。


「それが、お前が平和に生きるための方法だ。」



奨は黙って立ち上がり、縁側の障子を少し開けた。

夜の闇の向こうで、川の流れる音がかすかに聞こえる。

その音は、なぜか懐かしくもあった。

まるで自分を呼んでいるようだった。

【次回予告】

「第2章 白椿」


「二度と水に入るな。」


祖父の忠告とは裏腹に、奨は白い椿に導かれるように山へ、そして湖へと足を踏み入れる。

湖底で見たものは幻か、それとも――。


そして、その姿を見つめる一人の少年。


「お前、普通の人間じゃないな。」

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