第15章 八百の記憶
「そうなの? あいつ、そんなこと言ってたんだ。」
渕上家のリビングで、缶ビールを片手に八百が言った。
テレビでは、誰も見ていないバラエティ番組が流れている。
台所の方からは、母が夕食の片づけをする音が聞こえていた。
いつもと変わらない家の中。
「ひいおばあちゃん……。その話って本当なんですか?」
八百は、すぐには答えなかった。
缶ビールを口に運び、ひと口飲む。
それから、わずかに目を細めた。
「まあ、だいたいね。」
「……。」
奨は黙り込んだ。
「……じゃあ、本当に妖怪は人間を滅ぼそうとしたんですか。」
八百は、缶をテーブルに置いた。
「田村麻呂の頃の妖怪たちも、将門や純友に味方した妖怪たちも、別に国を滅ぼしたかったわけじゃない。」
「え?」
「信長に味方した妖怪たちもそうさ。
みんな、自分たちの居場所を守ろうとしただけなのさ。」
「じゃあ、井上さんが言っていたことは……。」
「嘘じゃない。」
八百は静かに言った。
「でも、全部本当でもない。」
八百は、奨を見た。
「妖怪はいつも、勝つ側にいたわけじゃない。むしろ逆さ。負ける側、追い詰められた側に寄り添ってきた。だから結果的に、反乱や敗者の側にいることが多かったんだよ。」
「それを、陰陽師は……。」
「〈妖怪が反乱を煽った〉と記録した。」
八百は、少しだけ目を伏せた。
「……まあ、そう見えたんだろうね。」
八百は笑った。
けれど、すぐにその笑みは薄くなった。
「……そういうことにしておいた方が、長く生きていくには楽なんだよ。」
「じゃあ、陰陽師は悪者なんですか。」
八百は首を振った。
「そう簡単な話じゃないよ。
陰陽師がいなければ、本当に人間を滅ぼしていた妖怪もいた。人間を守るために命を張った陰陽師もいた。井上の家にも、そういう人間はいたよ。」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
奨が玄関へ向かうと、そこに立っていたのは柳瀬だった。
いつものくたびれたジャケットに、帆布のショルダーバッグ。
だが、その表情はいつになく硬かった。
「夜分にすみません。八百比丘尼様がこちらにお越しだと聞きまして……。」
奨は一瞬迷った。
だが、リビングの方から八百の声がした。
「いいよ、奨ちゃん。通してあげな。」
柳瀬は、リビングに入るなり足を止めた。
缶ビールを片手にソファに座る八百を見て、すぐにわかったようだった。
「あなたが……八百比丘尼様。」
「様はいらないよ。腰がむずむずする。」
柳瀬は笑わなかった。
ただ、深く息を吸った。
「私は5歳の頃から、あなたを待っていました。」
「5歳?」
「山で迷ったところを、あなたに助けられました。」
「そうだったかね。長く生きてると、助けた子どもの顔なんて、いちいち覚えてないよ。」
「雨の日でした。沢に落ちかけた私の腕を、誰かがつかんだ。長い髪が濡れていて、白い手をしていて……。」
八百は、缶ビールを口に運んだ。
「……恐竜の絵のついた長靴。片方、流されちゃってさ。」
柳瀬の表情が変わった。
「……どうして、それを。」
八百は知らん顔でビールを飲んでいる。
「さあねえ。誰かから聞いたんじゃないの。」
「誰にも話していません。」
柳瀬の声が震えた。
八百は、少し困ったように笑った。
「子どもってのはさ、命が助かったあとでも、長靴の心配をするもんだからさ。」
柳瀬は、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「やめとくれよ。そんなふうに頭を下げられると、ビールがまずくなる。」
柳瀬は顔を上げた。
その表情には、安堵と緊張が入り混じっていた。
奨は、ふと窓の外に目をやった。
庭の垣根のそばに、黒い影が立っていた。
黒いスーツ。
細い銀縁の眼鏡。
肩にかかる長い髪。
昼間に焦げたシールの切れ端を拾い上げ、それをじっと見つめていた。
「ひいおばあちゃん、あそこ。」
奨が声をひそめた。
八百が顔を上げる。
柳瀬も窓の方を振り返った。
だが、そのときにはもう、黒いスーツの男の姿はなかった。
「井上礼二郎……。」
柳瀬がつぶやいた。
「知っているんですか。」
「ええ。だいぶ以前から。」
柳瀬は苦い表情を浮かべた。
「彼もまた、民俗学を研究する人間です。知識もある。資料も読める。現地にも足を運ぶ。そこだけ見れば、優秀な研究者です。」
「じゃあ、どうして……。」
「彼は、最初から結論を決めているんです。」
柳瀬は静かに言った。
「妖怪は危険である。人間社会から遠ざけなければならない。封じなければならない。彼にとって伝承は、その結論を補強するための材料でしかない。」
「でも、井上さんは井上さんで、人間を守ろうとしているんですよね。」
柳瀬は一瞬黙ると、静かに続けた。
「ええ。そこが厄介なんです。彼は悪人ではありません。むしろ、真面目すぎるほど真面目です。だからこそ危ない。自分が正しいと信じている人間ほど、迷わず相手を傷つけることがある。」
「柳瀬さん……。」
それまで黙っていた八百が口を開いた。
「あんたも、似たようなもんだよ。」
「私が、ですか。」
「そう。あんたは妖怪を守りたい。井上は人間を守りたい。どっちも守りたいものがある。でもね、守りたいって気持ちは、時々、相手の話を聞かなくする。」
八百は缶ビールをテーブルに置いた。
「妖怪は、証明されるために生きてるわけじゃない。封じられるために生きてるわけでもない。ただ、今日を生きてるだけだよ。」
その言葉に、柳瀬は何も言い返せなかった。
八百は、まだ窓の外を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「あの家の人間は、昔から覗き見が好きで困るね。」
【次回予告】
「第16章 仲間探し」
「俺はもう普通に生きてんだよ。」
八百比丘尼の言葉を胸に、 奨は身の回りの妖怪の末裔を探し始める。
最初に出会ったのは、土蜘蛛の末裔・土田。
だが彼は、妖怪として生きることを望んではいなかった。
人間に紛れ、ただ普通に生きたい。
妖怪たちにも、それぞれの人生があった。




