第14章 八百比丘尼の来訪
ある日の夜、奨の携帯が鳴った。
画面には、見慣れない番号が表示されている。
「もしもし。」
「奨ちゃん? 八百だよ。」
「ひいおばあちゃん?」
「今度の日曜、影ヶ沢に行くからね。」
「え?」
「久しぶりに、そっちの連中にも顔を出しておこうと思ってさ。」
――そっちの連中。
まるで、近所の知り合いに挨拶へ行くような口ぶりだった。
「じゃあね~。お土産楽しみにしててね。」
電話は切れた。
日曜日。
奨は、影ヶ沢の入口にあるバス停で八百を待っていた。
この集落に来るバスは、一日に二本しかない。
午前の便を逃せば、次は夕方まで来ない。
やがて、山道の向こうから小さなバスが姿を現した。
ブレーキの音を立てて停まり、扉が開く。
降りてきたのは、観光客らしい老夫婦と、登山姿の男が一人だけだった。
八百の姿はない。
バスはすぐに扉を閉め、山道の向こうへ去っていった。
「……来ないじゃん。」
奨は携帯を取り出した。
電話をかけようとした、そのときだった。
背後のダム湖から、水音がした。
振り返る。
湖面に、白い腕が伸びた。
次の瞬間、八百が水の中から顔を出した。
「は~い、奨ちゃん。」
あまりにも自然に手を振っているので、奨はしばらく言葉が出なかった。
「……泳いできたんですか?」
「当たり前よ。」
八百は、当然のように言った。
「人魚なんだから。」
そう言って、八百は湖畔の岩に手をかけ、軽々と水から上がってきた。
奨は、思わず視線を逸らした。
八百は、大胆なビキニ姿だったのだ。
「どうしたの。そんなに驚いて。」
「いや……その格好……。」
「泳ぐんだから、水着に決まってるでしょ。」
「それは、まあ、そうですけど……。」
奨が返事に困っていると、湖面がまた揺れた。
今度は、数人の男たちが次々と水から上がってきた。
それぞれ大きな荷物を抱えている。
その中に、見覚えのある顔があった。
湖底の村の長だった。
「長さん……?」
長は、奨に気づくと深々と頭を下げた。
「奨様。先日はどうも。」
「いや、こちらこそ……って、何してるんですか。」
長もまた、両手に大きな風呂敷包みを抱えていた。
八百は濡れた髪をかき上げながら、何でもないことのように言った。
「久しぶりに影ヶ沢へ行くって言ったら、みんな手伝うって聞かなくてね。」
長は恐縮したように頭を下げた。
「八百比丘尼様をお一人で行かせるわけには参りませんので。」
八百は肩をすくめた。
「だから、そんなにかしこまらなくていいって言ってるのに。」
その口調は、港町の食堂でビールを飲んでいたときと何も変わらなかった。
けれど、奨にはわかった。
湖底の村の妖怪たちは、八百に従っている。
従わされているのではない。
心から敬っているのだ。
八百は、包みのひとつを開けるとバスローブを取り出して羽織った。
そして、別の包みから大きな箱を取り出し、奨に渡す。
「はい、お土産。」
ずしりとした重み。
蓋の隙間から中には海産物があれこれと詰まっているのが見えた。
やがて、八百が集落に入ると、人々が集まって来た。
畑仕事の手を止めた老人。
買い物袋を下げた主婦。
一見すれば、どこにでもいる山里の住民たちだった。
けれど、その誰もが、八百の前では妙に背筋を伸ばしていた。
奨は初めて気づいた。
八百は彼にとっては、気さくなひいおばあちゃんだ。
だが、この人たちにとっては違う。
その中には河田もいた。
河田もまた、いつもとは違う顔をしていた。
「……本物だ。」
人々の中から、土田さんが歩み出て、深々と頭を下げた。
普段は気のいいおじさんである土田さんも、この時ばかりは態度が違う。
「八百比丘尼様。よくぞお越しくださいました。」
涼子が、駆け寄って来た。
「ねえ、奨。この人、君のひいおばあちゃんなの?」
「そうだよ。」
「嘘でしょ。若すぎない?」
「俺にも、まだ信じられない。」
二人の様子を見て、八百が近づいてきた。
「奨ちゃんの彼女?」
「違います。幼馴染です。」
奨が慌てて打ち消す。
八百は涼子をじっと見た。
「ふうん。君、冷たい匂いがするね。」
「え、私、そんなに冷え性っぽいですか?」
涼子は、自分の腕をさすった。
「六花んとこの子かい?」
「え?」
八百はそれ以上、何も言わなかった。
涼子のことまで、八百にはわかるのか。
そのときだった。
バチバチバチ……
何かがはじけるような音がした。
奨が慌てて八百の方を向くと、すぐ横の垣根から白い煙が上がっていた。
「やだ。うっかり触っちゃった。」
「ひいおばあちゃん、大丈夫ですか。」
奨が駆け寄る。
八百は、煙の上がる垣根を見て、少しだけ目を細めた。
「うん、全然平気。
……陰陽師ね。ったく、しつこいんだから。」
「札があったんですか?」
「普通の札なら避けるんだけどね。」
八百は、垣根に張られた小さなシールを指さした。
「ほら、キティちゃんのシールになってる。まぎらわしいったらありゃしない。」
「キティちゃん……。」
「まぁ、こんなことするの、どうせあいつの家ぐらいでしょ。」
奨は、以前ここで会った井上の姿を思い出した。
「……井上さんですか?」
「そうそう。あいつの家はね、昔からしつこいんだよ。ずっとずっと昔から。」
八百は、焦げたシールを指先でつまみ上げた。
「でも、こんなのおもちゃで私を封じようったって、無理よ。」
その声は軽かった。
けれど、井上の名を聞いた瞬間から、目だけは少しも笑っていなかった。
【次回予告】
「第15章 八百の記憶」
「あの家の人間は、昔から覗き見が好きで困るね。」
八百比丘尼が語る、千年の因縁。
陰陽師と妖怪――。
その対立は、まだ終わっていなかった。




