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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第13章 陰陽師

集落の入り口にある橋の欄干に、見慣れない白い札が貼られていた。

奨(しょう)がそれに気づき、手を伸ばしかけた瞬間だった。


「触るな。」


河田(かわだ)の声が飛んだ。


奨は思わず手を引っ込める。


「何ですか、これ。」


河田は札を見つめたまま、低い声でいった。


「結界札だ。」

「結界?」

「妖怪に対して何かよくないことをするための札だ。……とにかく触るな。」


そのとき、背後で声がした。


「その札は、私が貼りました。」


振り返ると、黒いスーツの男が立っている。

年齢は三十代の終わりか、四十代の初め。

細い銀縁の眼鏡をかけ、肩にかかるほどの長い髪を、後ろでゆるく束ねている。

顔立ちは整っていたが、血の気が薄く、どこか人形めいて見えた。

山道を歩いてきたはずなのに、革靴には泥ひとつついていない。

数日前、学校近くの公園の木の陰にに立っていた男だった。


「人間には害はありませんが、妖怪の血を引く者には、少々効きます。」


男は、静かに頭を下げた。


「初めまして。井上(いのうえ)礼二郎(れいじろう)と申します。」


河田が、井上を睨む。


「何しに来た。」

「調査ですよ。」

「柳瀬(やなせ)の仲間か。」

「いいえ。」


井上は、かすかに口元を緩めた。


「むしろ、彼の後始末に来たと言った方が近いでしょう。」


奨は言葉を失った。

河田でさえ、すぐには言い返さなかった。


井上は、橋の向こうに広がる集落を眺めた。


「この土地は……、思ったよりも濃いですね。」


河田の目が細くなる。


「あんたは、何者なんだ?」


井上は、もう一度静かに頭を下げた。


「私は、順城(じゅんじょう)大学の教授です。民俗宗教史を研究しています。」

「大学の先生が、こんな札を貼れるのか?」


河田が吐き捨てるように言った。

井上は、欄干に貼られた白い札を見た。


「ただの大学教授では無理でしょうね。」


そして、ゆっくり2人に向き直る。


「私には、もうひとつの顔があります。」

「もうひとつ?」

「陰陽師(おんみょうじ)です。」

「陰陽師!?」


奨と河田の声が、思わず揃った。


「そんな陰陽師が、なぜこんな札を。」


河田が井上に問う。


「それは警告です。」

「警告?」

「この地に害をなすものへの警告です。」

「何のために?」

「人々の安全を守るためです。」


井上はまた、欄干に貼られた白い札を見た。


「妖怪は、ときに人間に害をなす存在です。善良なものもいるでしょう。けれど、力を持つ存在は、善意だけでは測れません。

私たち陰陽師は、何百年もの間この国で、妖怪たちの怪異から人間を守ってきました。」


奨は、思わず言い返した。


「それは、人間が自然を破壊したからじゃないんですか。人間が手を出さなければ、妖怪たちは何もしないんじゃ……。」

「君は、妖怪を善良なものだと信じているようですね。」


井上は、静かに息を吸った。


「無理もありません。君はまだ知らない。」

「何をですか。」

「これまで、何度妖怪が人間の歴史を動かそうとしてきたかを。」


井上はスーツのポケットから、小さな手帳を取り出した。


「表の歴史には残っていません。ですが、私たち陰陽師には、そう伝わっています。歴史的事件の影には、妖怪たちの暗躍と、それを阻止する陰陽師の戦いがあったのです。」


井上は手帳を開いた。


「あなたたちは学校で、征夷大将軍・坂上(さかのうえ)田村麻呂(たむらまろ)を学びましたね。」


2人は答えなかったが、井上は続ける。


「あれには、蝦夷の族長たちに力を貸した妖怪を討伐するための、陰陽師たちの戦いがありました。」


さらに続ける。


「山の妖怪が平将門(たいらのまさかど)に、海の妖怪が藤原純友(ふじわらのすみとも)に力を貸したこともあります。あるいは、織田(おだ)信長(のぶなが)に協力した妖怪は、あと一歩で天下を支配するところでした。」

「信長!?」


奨は思わず聞き返した。

井上は手帳から目を離して顔をあげた。


「明智(あけち)光秀(みつひで)もまた、陰陽師の血を引いていたと伝わっています。」


奨は、もうついていけなかった。


「もちろん、すべてが妖怪のせいだと言うつもりはありません。人間の欲望も、憎しみも、歴史を動かしてきた。ですが、そこに妖怪が力を貸したことも、また事実です。」


河田が、小さくつぶやいた。


「すげ……鬼殺隊(きさつたい)みたいだ。」


井上は表情ひとつ変えなかった。


「比喩としては、あまり正確ではありませんね。」

「そこ、真面目に返すんだな。」

「私たちは鬼を狩っているのではありません。境界を守っているのです。」


井上は、2人を見た。


「人間と妖怪の境界を。」


奨は黙った。


「その境界が崩れたとき、いつも争いが起きました」


井上は手帳を閉じた。


「私が言いたいのは、ただ一つです。妖怪の力は、歴史を動かすほど危険なものだということです。」

「でも、それって妖怪だけが悪いんですか」


奨の言葉に、井上の目が、わずかに細くなった。


「どういう意味ですか。」

「人間だって、妖怪の力を利用したんじゃないんですか。自分たちの争いに巻き込んだんじゃないんですか。」


井上は軽くため息をついた。


「だからこそ、境界が必要なのです」


井上は2人に背を向けた。

河田がその背に問いかける。


「あんたは、俺たちに何をするつもりなんだ。」


井上は少し振り返った。


「言ったでしょう、警告です。妖怪が大人しく境界を守っている限り、私たちは何もしない。だが……。」


再び背を向ける。


「あなたたちが境界を超える存在だと判断すれば、そのときは……。」


井上は集落の出口の方へ歩き出した。


「……封じます。」


そして振り返らずに言った。


「私は、あなたたちが賢明であることを信じていますよ。」

【次回予告】

「第14章 八百比丘尼の来訪」


「は~い、奨ちゃん。」


湖から現れたのは、数百年を生きる人魚――八百(やお)比丘尼(びくに)。

影ヶ沢(かげがさわ)の妖怪の末裔たちは、その姿に頭を垂れる。


しかし、その歓迎の裏で、 陰陽師の仕掛けた"結界"が静かに牙をむく。

八百比丘尼と陰陽師―― 時を超えた因縁が、ついに動き出す。

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