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妖怪たちの黄昏-森と人間のあいだで―  作者: 智沢蛸


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第12章 いなかったことにしない

奨(しょう)は断る理由を見つけられず、応接室に入った。

促されるまま、柳瀬(やなせ)の向かいのソファに腰を下ろす。


「君、名前は?」

「渕上(ふちがみ)奨です。」

「渕上君か。」


柳瀬は、わずかに目を細めた。

その後しばらくは、たわいもない話が続いた。


学校のこと。

影ヶ沢(かげがさわ)のこと。

ダム湖のこと。


柳瀬はあくまで穏やかで、校長先生も不審に思っている様子はなかった。

やがて、校長先生が時計を見た。


「すみません。少し用件がありまして。渕上、柳瀬先生に失礼のないようにな。」


そう言って、校長先生は応接室を出ていった。



扉が閉まる。

その瞬間、部屋の空気が変わった。

柳瀬は、先ほどまでの穏やかな笑みを残したまま、奨の方へ少し身を乗り出した。


「君とは、夏休みに影ヶ沢で会いましたね。」

「はい。」

「……渕上、という名字には覚えがあります。」


奨は黙った。


「君はやはり、八百(やお)比丘尼(びくに)を知っていますね。」

「……どうして、そう思うんですか。」

「八百比丘尼の名前を出したとき、君は知らないふりをした。けれど、あれは知らない人間の反応ではありませんでした。」


柳瀬は小さく笑った。


「今日の講演でも同じです。」


柳瀬は、奨の目をじっと見つめた。


「では、言い方を変えましょう。君は、八百比丘尼の血を引いている。違いますか。」


もう、誤魔化せない。

そう思った。


「……ひいおばあちゃんです。」


柳瀬の表情が、わずかに変わった。

それは驚きというより、長い間探していたものにようやく触れた人間の顔だった。


「やはり。」


柳瀬は、深く息を吐いた。


「本当に、いたんですね。」

「ひいおばあちゃんを知っているんですか。」


奨が尋ねると、柳瀬は静かに首を振った。


「会ったことはありません。ですが、ずっと調べてきました。八百比丘尼の伝承を。人魚の話を。この奥多摩に残る奇妙な記録も。」


柳瀬は、奨の目をまっすぐ見た。


「君に聞きたいことがあります。君にも、その力はあるのですか。」

「……それ、どういう意味ですか。」

「そのままの意味です。君にも、八百比丘尼の力が受け継がれているのではないか。少なくとも、私はそう見ています。」

「もしそうだったら、どうするんですか。」


柳瀬は、表情を和らげた。


「守りたい。」

「守る?」

「ええ。私は、妖怪を暴きたいわけではありません。見世物にしたいわけでもない。ましてや、捕まえて研究材料にしたいわけでもありません。」


奨は黙っていた。


「ただ、いなかったことにしたくないんです。」


その言葉に、奨は顔を上げた。


「いなかったこと?」

「はい。」


柳瀬は、膝の上で指を組んだ。


「子供の頃、私は山で迷ったことがあります。雨が降っていて、足を滑らせて、沢に落ちかけた。もう駄目だと思ったとき、誰かが私を助けてくれました。」

「誰か?」

「わかりません。」


柳瀬は小さく首を振った。


「人間ではなかったと思います。少なくとも、私にはそう見えた。長い腕をしていて、濡れた草の匂いがして、声はすぐ耳元で聞こえるのに、顔ははっきり見えなかった。」


奨は、黙って聞いていた。


「その話を大人にしても、誰も信じてくれませんでした。夢を見たんだろう。狐に化かされたんだろう。子供の勘違いだろう。みんな、そう言いました。」


柳瀬は、かすかに笑った。


「けれど、私は忘れられなかった。あのとき、確かに何かが私を助けてくれた。その存在を、なかったことにはしたくなかった。」


応接室の窓の外で、風が木の葉を揺らした。


「だから私は、伝承を調べるようになりました。山に残る話。川に残る話。消えた村の記録。人々が語らなくなった昔話。そういうものを追いかけているうちに、奥多摩にたどり着いたのです。」


柳瀬は、奨をまっすぐ見た。


「そして、八百比丘尼の伝承に出会いました。」


柳瀬は声を落とした。


「そこには、何か理由があるはずです。」

「それで、俺を調べてたんですか。」


奨の声は、自分でも思ったより冷たかった。

柳瀬は、ばつが悪そうに目を伏せた。


「そうです。」

「否定しないんですね。」

「嘘をついても仕方ありませんから。」


柳瀬は静かに言った。


「もちろん、君個人を傷つけるつもりはありません。」

「つもりがなくても、困る人はいます。」


奨がそう言うと、柳瀬は黙った。

その沈黙は、言い訳を探している沈黙ではなかった。

自分の言葉を受け止めている沈黙だった。


「……その通りです。」


柳瀬は、深く頭を下げた。


「すみません。私は、少し急ぎすぎていたのかもしれません。」


奨は、柳瀬を見つめた。

この人は危ない、そう思った。

妖怪を守りたいという思いが、時に妖怪たち自身を追い詰めるかもしれない。

それでも、柳瀬の目に悪意は見えなかった。


「俺だけじゃ……ありません。」


奨は言った。


「この町には、他にもいます。たぶん、この学校にも。けれど、みんな普通に暮らしてるんです。妖怪として特別扱いされることなく、普通に。」

「やはり、そうですか。」


柳瀬は深くうなずいた。


「そっとしておいてください。だから、勝手に調べたり、名前を出したりしないでください。誰かの暮らしを壊すようなこともしないでください。」


柳瀬は、すぐには答えなかった。

それから、静かに口を開いた。


「……わかりました。お約束します。」


奨は、柳瀬の顔を見つめた。

柳瀬は、その視線を受け止めてから、言葉を続けた。


「ただ、一つだけ言わせてください。」

「何ですか。」

「君が……人魚の力を持っているのなら。それを誰かのために役立てる必要があるとは思いませんか?」


奨は何も言わなかった。


「今、この奥多摩でも自然は少しずつ失われています。人間の力だけで自然を守ることは難しい。だからこそ、君たち妖怪の血を引く人たちの助けが必要なのです。そうは思いませんか。」


奨は答えることができなかった。


「すぐに答えが見つかることだとは思いません。ですが、よく考えて欲しいのです。」


しばらく、沈黙が続いた。


「……全部は信じられません。」


柳瀬は何も言わず、奨の言葉を待っていた。


「でも、少しだけなら、あなたに協力してもいいと思います。」


柳瀬の表情が、わずかに緩んだ。


「ありがとう。」

「その代わり、俺からも一つお願いがあります。」

「何でしょう。」

「あなたが知っていることを、俺にも教えてください。」

「わかりました。」


応接室の外から、チャイムの音が聞こえた。

柳瀬は立ち上がった。


「今日は、話してくれてありがとう。渕上くん。」


窓からは夕方の光が差し込み、山の稜線が青く沈み始めていた。



奨が校門を出て、バス停に向かおうとした時、向こうからくる人とすれ違った。

担任の安倍(あべ)先生だった。


「先生。」

「な、なんだ、渕上。まだいたのか?」

「どうしたんですか?」

「ちょっと、忘れものだ。お前も気をつけて帰れよ。」

「さようなら……。」


足早に学校の方へ向かって行った。


(なんか、焦ってたな……。)


そのとき、奨はなにやら気配を感じた。

橋の手前にある公園。

一段高くなった場所に立つ木の陰に、一人の男が立っているのが見えた。


黒いスーツ。

細い銀縁の眼鏡。

肩にかかるほどの長い髪を、後ろでゆるく束ねている。

顔立ちは整っていたが、血の気が薄く、どこか人形めいて見えた。

人というより、そこだけ夕暮れから切り抜かれた影のようだった。


(誰だろう……。)


もう一度、そちらに目をやると、すでにその姿は消えていた。

後に残っていたのは、夕暮れの冷たさと、何か得体の知れないものの気配だけだった。

【次回予告】

「第13章 陰陽師」


「私は、陰陽師です。」


橋の欄干に貼られた一枚の結界札。

その札を貼った男・井上(いのうえ)礼二郎(れいじろう)は静かに名乗る。


「私たちは、何百年もの間この国で、妖怪たちの怪異から人間を守ってきました。」


人間と妖怪、その境界に立つ奨の運命が、大きく動き始める。

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