第11章 妖怪講座
「今日の探究の時間は、『奥多摩の伝承』。講師は文化人類学者の柳瀬信夫先生です。」
教員にそう紹介されてステージに上った男の姿を見て、奨は身を固くした。
夏休み中、影ヶ沢の集落をいろいろ調べていたあの男だった。
「柳瀬です。よろしくお願いします。」
柳瀬は、穏やかな口調で話し始めた。
「今日、私がみなさんにお話ししたいのは、奥多摩の伝承――具体的には、奥多摩に残る妖怪伝説についてです。」
体育館の中が、少しざわついた。
「妖怪と言うと、みなさんは昔話や漫画の中の存在だと思うかもしれません。もちろんそう考えるのが普通でしょう。」
柳瀬は軽く笑った。
「ですが、妖怪とは本来、人間が理解できなかったものに与えた名前でもあります。山で聞こえる不思議な声。川で起こる事故。冬の夜に現れる白い影。そうしたものに、人は名前をつけてきました。」
奨は黙って聞いていた。
「私は、妖怪伝説を単なる迷信だとは考えていません。そこには、その土地に生きた人々の記憶や、自然への恐れが刻まれていると思うのです。」
柳瀬はそこで一度、体育館を見回した。
「そして奥多摩には、今でも多くの妖怪伝説が残っています。」
山姥。
山彦。
川天狗。
このとき、河田の肩がわずかに動いた。
土蜘蛛。
雪女。
「あ……。」
奨の前に座っていた涼子が、小さく声を上げた。
他にも、何人かの生徒たちが、妙に落ち着かない様子で辺りに視線を泳がせていた。
奨はそれを見逃さなかった。
そして、柳瀬もまた気づいているようだった。
柳瀬の視線は、生徒たちの顔をなぞるように動いていた。
(あの人は、探しているんだ。)
柳瀬は続けた。
「青梅の塩船観音には、八百比丘尼が関わったという伝承があります。八百比丘尼――人魚の肉を食べ、不老長寿となったとされる女性です。」
柳瀬の視線が、一瞬だけ奨に向いた。
「不思議だと思いませんか。海から遠く離れたこの多摩の地に、なぜ人魚にまつわる伝承が残っているのか。」
奨は柳瀬の視線を避けるように目をそらした。
すると、壁際に立つ安倍先生の姿に気づいた。
腕を組み、険しい表情で柳瀬の話を聞いている。
「もしかすると、妖怪は完全に姿を消したわけではないのかもしれません。人と交わり、人の姿を取り、人間社会の中に紛れて生き延びた。つまり――妖怪の末裔が、今もどこかで暮らしているのではないか……。」
柳瀬の言葉に、体育館の空気が揺れた。
奨は安倍先生の様子をそれとなく窺う。
(ふん、くだらない……。)
口元が、そう言ったように動いた。
「先生、それ本気ですか?」
誰かが笑いながら柳瀬に問う。
生徒たちの間にもどよめきが広がる。
柳瀬は穏やかに笑みを浮かべた。
「もちろん、学術的に証明された話ではありません。」
そこで、少し間を置いた。
「ですが、証明されていないから存在しない、と言い切るのもまた、学問的ではありません。」
笑いが少しだけ弱まった。
奨は、周囲の生徒たちを見た。
河田は露骨に不機嫌そうな顔で、柳瀬を睨んでいる。
涼子は、不安そうに自分の指先を見つめていた。
柳瀬は最後に、ダム湖の底に沈んだ集落について語り始めた。
「この地域では、ダム建設によって、いくつもの集落が水の底に沈みました。人間の村は、地図の上から消えた。けれど、伝承や記憶まで消えたわけではありません。」
奨の頭に、湖底の村が浮かんだ。
鬼火の灯る道。
古い家々。
「私は考えています。人間が自然を忘れたとき、妖怪もまた姿を消していったのではないか、と。」
柳瀬の声が、少しだけ熱を帯びた。
「妖怪は、ただの怪物ではありません。森に住むもの、川に住むもの、海に住むもの。彼らは、人間が自然を恐れ、敬っていた時代の記憶そのものです。」
体育館は静まり返っていた。
「けれど、人間は自然を恐れなくなった。山を削り、川をせき止め、海を埋め立てた。その結果、何が起きたか。」
柳瀬は、体育館中の生徒たちをゆっくり見渡した。
「私は思うのです。人間だけでは、もう自然を守れないのではないか、と。」
奨は、柳瀬を見つめた。
(この人は……、何をしようとしているのだろう。)
授業が終わっても、奨はその場を動けなかった。
今のは、ただの講演だったのだろうか。
明らかに誰かに向けられた呼びかけだった。
その誰かの中に、自分も含まれている気がしてならなかった。
放課後、奨が廊下を歩いていると、応接室の前で足が止まった。
扉が細く開いている。
そこから、聞き覚えのある声が漏れていた。
柳瀬の声だった。
何気なく中を覗くと、柳瀬が校長先生と向かい合って話をしていた。
穏やかな表情で、いかにも招かれた講師らしく振る舞っている。
そのとき、柳瀬がふとこちらを見た。
目が合った。
奨は慌てて後ずさろうとしたが、柳瀬はにこりと笑い、手招きした。
「君も、よかったらこちらへ来て話しませんか。」
校長先生が振り返る。
「おや、渕上か。ちょうどいい。柳瀬先生は、この地域の伝承について研究されているそうだ。君も地元の生徒として、何か話せることがあるかもしれないな。」
【次回予告】
「第12章 いなかったことにしない」
「俺たちのことを、勝手に公表しないでください。」
応接室で向き合う奨と柳瀬。
妖怪を守りたい文化人類学者。
妖怪たちの日常を守りたい少年。
二人の思いは交わり、ひとつの約束が結ばれる。
しかしその夕暮れ、 神社の鳥居には、不気味な男が静かに立っていた――。




