第二十四話:燃えるモスクワ
1812年9月14日、深夜。
モスクワの夜空を、一筋の炎が裂いた。
「火事だ!」
近衛兵が叫ぶ。
誰もが、小さな火災だと思った。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
十分後。
東の空が赤く染まる。
さらに西でも。
南でも。
北でも。
街中の至るところから炎が立ち上がった。
「何だ、これは……。」
ミュラは思わず馬を止めた。
炎は風にあおられ、屋根から屋根へと飛び移る。
乾ききった木造家屋は、まるで油を注がれたように燃え上がった。
鐘楼が炎に包まれる。
商館が崩れ落ちる。
教会の十字架が火の粉を散らしながら夜空へ倒れていく。
モスクワ全体が、巨大な火の海へ変わろうとしていた。
クレムリン。
ナポレオンは城壁の上から街を見つめていた。
「偶然ではない。」
低い声だった。
ベルティエもうなずく。
「各地で同時に出火しています。」
「組織的な放火です。」
そのとき、一人の将校が駆け込んできた。
「陛下!」
「市内で放火犯を捕らえました!」
数人の男たちが連れて来られる。
その手には火薬と松明。
火口に使う道具が握られていた。
尋問が始まる。
「誰の命令だ。」
男は口を閉ざす。
兵士が剣を抜く。
しばらく沈黙が続いた。
やがて男は震える声で言った。
「……モスクワを敵に渡すな、と。」
その言葉だけを残し、再び口を閉ざした。
ナポレオンは静かに目を閉じる。
「ここまでやるか……。」
風が強まった。
炎はさらに勢いを増す。
火の粉は数百メートル先まで飛び、次々と新たな火災を生み出していく。
「消火だ!」
フランス兵は井戸へ走る。
しかし桶を落としても、水はほとんど残っていない。
焦土作戦の一環として、多くの消火設備や消防ポンプは運び去られるか、使えないようにされていた。
兵士たちは必死に屋敷を壊し、延焼を食い止めようとする。
だが、炎の勢いは人の力をはるかに超えていた。
屋根が崩れる。
梁が折れる。
火柱が夜空を焦がす。
モスクワは、自らの炎で焼け落ちていく。
翌日。
黒煙は昼の空を覆い尽くした。
太陽は赤黒く霞み、昼であるにもかかわらず街は夕暮れのように暗い。
兵士たちは口元を布で覆いながら歩く。
「息ができない……。」
「水を……。」
熱風が顔を焼く。
灰が雪のように降り積もる。
その灰の中には、焼け焦げた書物も、家具も、人々が積み上げてきた暮らしの跡も混じっていた。
ミュラは燃え盛る通りを見つめ、拳を握り締める。
「勝ったはずだ……。」
「なのに、何も手に入らない。」
ベルティエは新たな報告を持って皇帝のもとへ急ぐ。
「陛下。」
「市内の食料倉庫、その大半が焼失しました。」
「冬営用に確保する予定だった衣類や毛布も、多くが炎に飲まれています。」
「馬の飼料もほとんど失われました。」
ナポレオンは言葉を失った。
彼はモスクワを占領すれば、兵を休ませ、食料を補給し、講和を待つつもりだった。
その計画は、一夜にして灰となった。
その日の夕刻。
炎はクレムリンにも迫っていた。
火の粉が城壁を越え、木造の建物へ降り注ぐ。
近衛兵が駆け寄る。
「陛下、このままでは危険です!」
「クレムリンから退避してください!」
ナポレオンはなおも炎を見つめていた。
黄金に輝いていた都は、赤黒い炎と黒煙に飲み込まれていく。
しばらくして、彼は静かに帽子を取り、燃えゆくモスクワへ一礼した。
「……なんという民族だ。」
その声には怒りよりも、驚きと畏敬が入り混じっていた。
祖国を守るため、自ら祖国最大の都を焼き払う。
モスクワが誇る歴史的な文化遺産のすべてを焼き払うということだった。
その決断は、ナポレオンがこれまで戦ってきたどの国とも違っていた。
彼はゆっくりと馬へまたがる。
「退避する。」
皇帝一行は炎を避けながらクレムリンを離れた。
背後では、燃え上がるモスクワが轟音を響かせていた。
誰も気づいていなかった。
この炎が焼いたのは建物だけではない。
ナポレオンが描いていた勝利への道筋そのものを、灰へと変えてしまったのである。
そして皇帝は、なお待ち続ける。
ロシア皇帝アレクサンドル一世から届くはずの、一通の講和の返書を。




