第二十三話:黄金の都モスクワ
1812年9月14日。
朝霧がゆっくりと晴れていく。
先頭を進む騎兵隊が、一斉に馬を止めた。
「見えた……。」
誰かが息をのむ。
地平線の彼方。
朝日に照らされ、無数の黄金の塔が輝いていた。
モスクワ。
ロシア正教会の玉ねぎ形のドームは、まるで金色の海のように陽光を反射している。
その壮麗な都を目にした兵士たちは歓声を上げた。
「モスクワだ!」
「ついに着いた!」
「戦争は終わるぞ!」
疲れ切った兵士たちの顔に、久しぶりの笑みが戻る。
ナポレオンは丘の上で馬を止め、静かにその景色を眺めていた。
「美しい都だ……。」
ベルティエが隣でうなずく。
「ヨーロッパでも有数の大都市です。」
「人口は二十五万を超えるといわれています。」
ミュラは笑った。
「これだけの都を失えば、アレクサンドルも降伏するしかありません。」
ナポレオンも静かにうなずく。
「戦争とは政治の延長だ。」
「首都ではないとはいえ、モスクワはロシア人の魂そのもの。」
「この都を占領すれば、皇帝は必ず講和の席に着く。」
その言葉に、誰も異論を唱えなかった。
ヨーロッパ中の戦争は、首都や大都市を失えば終わる。
それが常識だった。
ナポレオンも、その常識を疑ってはいなかった。
グランダルメはゆっくりとモスクワへ近づく。
しかし、その途中で奇妙なことに気づく。
村が静かだった。
人の姿がない。
畑には収穫されないままの麦が風に揺れている。
犬の鳴き声さえ聞こえない。
「妙です。」
ベルティエが眉をひそめる。
「住民が一人もおりません。」
ミュラは肩をすくめた。
「戦を恐れて逃げたのでしょう。」
だが、ナポレオンは何も答えなかった。
胸の奥に、小さな違和感が芽生えていた。
昼過ぎ。
先遣隊がモスクワ郊外へ到達する。
広い街道。
立派な石造りの屋敷。
豪華な庭園。
だが、人影はなかった。
店は閉まり、市場は空っぽ。
窓は板で打ちつけられ、扉には鍵が掛けられている。
まるで街そのものが息を止めたようだった。
「市長は?」
「使節は?」
「降伏の使者は来ていないのか?」
副官たちは周囲を見回す。
返事はない。
風だけが通りを吹き抜けていく。
夕刻。
グランダルメはついにモスクワへ入城した。
皇帝の近衛兵が先頭を進む。
その後ろを元帥たちが続く。
誰もが市民の歓迎を予想していた。
花束。
鐘の音。
降伏の使者。
しかし、待っていたのは静寂だった。
馬の蹄の音だけが石畳に響く。
「……誰もいない。」
兵士が思わずつぶやく。
見渡す限り、無人の街。
窓という窓は閉ざされ、教会の鐘も鳴らない。
数日前まで二十五万人以上が暮らしていた大都市とは思えなかった。
ナポレオンはクレムリンへ馬を進める。
古い城壁の前で馬を止めると、ゆっくりと街を見渡した。
「アレクサンドルは、どこだ。」
誰も答えられない。
皇帝は静かに命じた。
「使者を送れ。」
「ロシア皇帝へ伝えよ。」
「私は講和を望む、と。」
ベルティエは深く一礼した。
「直ちに。」
しかし、その使者が返事を持ち帰ることはなかった。
アレクサンドル一世は、講和の申し出を受けようとはしなかったのである。
その夜。
モスクワの空に、一筋の黒い煙が立ち上った。
最初は誰も気に留めなかった。
「どこかで火事でもあったのでしょう。」
そう語る兵士もいた。
だが、煙は一本では終わらない。
二本。
三本。
十本。
やがて街のあちこちから炎が上がり始める。
風が火の粉を運び、乾いた木造家屋へと燃え移る。
夜空は赤く染まり、黄金の都は巨大な炎に包まれようとしていた。
ナポレオンはクレムリンの城壁から、その光景を見つめる。
彼はまだ知らなかった。
この炎こそが、ロシア皇帝アレクサンドル一世の返答であり、グランダルメの運命を決定づける合図となることを。




