表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/40

第二十二話:ボロジノの激戦 ― 血塗られた一日

1812年9月7日。


まだ夜が明けきらぬ午前五時。

ボロジノの平原は濃い霧に包まれていた。

草には朝露が光り、静寂だけが広がっている。

その静けさは、不気味だった。

やがて、ナポレオンは天幕から姿を現した。

灰色の軍服。

黒い二角帽。

兵士たちは道を開ける。

誰一人、言葉を発しない。

皇帝は丘へ登り、望遠鏡を手にした。

霧の向こうにはロシア軍の陣地。

ラエフスキー堡塁。

バグラチオン・フレッシュ。

その背後には、十万を超えるロシア軍が静かに待ち構えていた。

ベルティエが時計を見る。

「陛下、まもなく攻撃開始時刻です。」

ナポレオンは小さくうなずく。

「始めよう。」


午前六時。

轟音。

大地そのものが揺れた。

フランス軍の砲兵隊が一斉に火を噴く。

数百門の大砲が炎を吐き、砲弾が唸りを上げてロシア軍陣地へ降り注ぐ。

それに応えるように、ロシア軍の砲兵も一斉に射撃を開始した。

砲弾が空中で交錯し、土塊と黒煙が空高く舞い上がる。

「撃て!」

「装填!」

「撃て!」

砲兵たちは汗と火薬にまみれながら、狂ったように砲を撃ち続けた。

兵士の耳には、もう何も聞こえない。

聞こえるのは爆発だけだった。


「前進!」

ネイ元帥が剣を振り上げる。

「フランス軍に不可能はない!」

歩兵が一斉に走り出す。

ロシア軍の銃撃。

兵士が次々と倒れる。

しかし後ろの列が前へ出る。

また倒れる。

それでも前へ。

銃剣を構えた兵士たちは、土塁へ飛び込んだ。

そこは地獄だった。

銃剣がぶつかる。

軍刀が閃く。

叫び声。

悲鳴。

血煙。

一つの土塁を奪うためだけに、何千人もの命が消えていく。


左翼ではダヴー元帥が攻撃を続けていた。

突然、一発の砲弾が炸裂する。

馬が吹き飛ぶ。

ダヴーも地面へ叩きつけられた。

「元帥!」

副官が駆け寄る。

血を流しながらダヴーは立ち上がる。

「私は生きている。」

彼は剣を抜いた。

「前進だ!」

兵士たちが歓声を上げる。

「ダヴー元帥万歳!」


その頃、右翼ではミュラが騎兵を率いていた。

羽飾りの帽子が朝日に輝く。

「続けぇぇぇ!」

数千騎の騎兵が草原を疾走する。

地響き。

ロシア軍歩兵は四角い方陣を組み、銃口を突き出した。

「撃て!」

一斉射撃。

馬が倒れる。

騎兵が宙を舞う。

それでもミュラは止まらない。

「もう一度だ!」

突撃。

また突撃。

まるで嵐だった。


戦場中央。

ラエフスキー堡塁。

ここが戦いの中心だった。

ネイ。

ダヴー。

ミュラ。

三人の元帥が力を合わせ、何度も突撃する。

奪う。

奪い返される。

また奪う。

兵士たちは、自分が何度この坂を登ったのかさえ分からなくなっていた。

土は赤く染まり、草は踏み潰され、砲車は折れ、死体が壁のように積み重なる。


丘の上。

ナポレオンは望遠鏡を下ろした。

ベルティエが静かに言う。

「陛下。」

「近衛軍を投入すれば、勝負は決まります。」

周囲の元帥たちも同じ考えだった。

近衛軍。

一万人を超える皇帝直属の精鋭。

ヨーロッパ最強と恐れられた最後の切り札。

ナポレオンは黙ったまま戦場を見つめる。

煙の向こうでは、なお戦いが続いている。

もしここで近衛軍を投入すれば、ロシア軍は崩れるかもしれない。

しかし、その先にはモスクワがある。

さらにその先には、帰還という長い道がある。

皇帝はゆっくりと首を振った。

「いや。」

ベルティエが驚く。

「陛下……。」

ナポレオンは短く言った。

「近衛軍は動かさない。」

その決断は、誰にも覆せなかった。


夕暮れ。

ようやくロシア軍は後退を始める。

「勝った!」

兵士たちは叫んだ。

しかし、その声は弱々しかった。

勝者も敗者も、力を使い果たしていた。

ベルティエが戦果を報告する。

「陛下。」

「ラエフスキー堡塁を占領。」

「敵軍は退却を開始しました。」

ナポレオンはうなずく。

「そうか。」

だが、その表情に喜びはなかった。

彼が望んだのは陣地ではない。

ロシア軍の壊滅だった。

クトゥーゾフは軍を保ったまま撤退している。

また逃げられた。

皇帝はゆっくり戦場を見下ろした。

そこには勝利を祝う景色はない。

折れた軍旗。

砕けた砲車。

倒れた馬。

そして、無数の兵士たち。

フランス兵も。

ロシア兵も。

皆、同じ空を見たまま動かなかった。

夕日が草原を赤く染める。

その赤は、夕焼けなのか。

流された血なのか。

誰にも分からなかった。

ナポレオンは静かにつぶやく。

「これほどの勝利でありながら……。」

長い沈黙。

「これほど悲しい勝利はない。」

ボロジノ。

それはフランス軍の勝利だった。

しかし、その日失われた数万の命は、皇帝から二度と取り戻すことのできないものだった。


ナポレオンは戦場を見渡した。

夕日に照らされたボロジノの平原は、兵士たちの亡骸で埋め尽くされていた。

フランス兵。

ロシア兵。

敵も味方もなく、静寂だけが広がっている。

しばらく誰も口を開かなかった。

やがて皇帝は、深く息をつき、静かにつぶやいた。

「……こんな戦いを続けていては、誰もいなくなってしまう。」

その言葉に、ベルティエもミュラも何も答えられなかった。

勝利は手にした。

しかし、その勝利はあまりにも多くの命を代償としていた。

ボロジノ。

それは皇帝ナポレオンでさえ、勝利の重さを思い知らされた戦場だった。


ボロジノを越えてなお、グランダルメは東へ進み続けた。

しかし、その歩みは日に日に重くなっていく。

照りつける太陽は容赦なく兵士たちの体力を奪い、水筒は昼を待たずに空になった。

井戸は埋められ、川の水は濁り、わずかな水を求めて兵士同士が争うことさえあった。

食料事情はさらに深刻だった。

焦土作戦によって畑は焼き払われ、穀物倉は灰となり、家畜はすべて連れ去られていた。

補給隊が運ぶ乾パンも塩漬け肉も、長く伸びきった補給線の途中で尽きていく。

飢えた兵士は未熟な麦を口にし、腐った肉を食べ、病に倒れた。

赤痢、腸チフス、発熱。

軍医の天幕は傷病兵であふれ返り、薬も包帯も底をついていた。

さらに、馬の飼料も尽き始める。

何万頭もの軍馬が飢えや疲労で倒れ、砲兵隊は重い大砲を放棄せざるを得なかった。

かつて六十万を超え、ヨーロッパ最強を誇ったグランダルメは、戦うたびではなく、一日進むたびにその兵力を失っていった。

一方、その頃のロシアでは、まったく逆の光景が広がっていた。

モスクワでは鐘が鳴り響き、教会では祖国防衛の祈りが捧げられる。

「祖国が危ない。」

その知らせは、平原の農村から森の集落まで、広大なロシア全土を駆け巡った。

農民は鍬を置き、猟師は銃を手に取り、退役した老兵も再び軍服に袖を通す。

若者たちは家族に別れを告げ、自ら志願して軍へ加わった。

「モスクワは渡せない。」

「祖国を守る。」

その思いだけを胸に、人々は義勇軍として集結していく。

ロシア各地から集まった義勇兵は正規軍と合流し、その数は日を追うごとに増えていった。

フランス軍が一歩進むごとに兵力を失っていくのとは対照的に、ロシア軍は祖国を守ろうとする民衆の力を得て、さらにその勢力を膨らませていったのである。

ある夜、ベルティエは新たな報告書をナポレオンの机に置いた。

「陛下……。」

ナポレオンは黙って目を通す。

「我が軍は補給の遅延と病気により、毎日のように兵力を減らしております。」

ベルティエは続けた。

「しかしロシア軍は、各地から義勇兵や民兵が加わり、その戦力を回復しつつあります。」

天幕の中は静まり返った。

グランダルメは進めば進むほど弱り、ロシア軍は退けば退くほど強くなる。

この戦争はもはや、一度の会戦で勝敗が決まるものではなかった。

それは、広大な祖国そのものを武器としたロシアと、時間と距離、そして飢えとの戦いを強いられるグランダルメとの、終わりなき消耗戦へと姿を変えていた。


そして三日後。

ナポレオン率いるグランダルメ(大陸軍)は、モスクワへ向けて進軍を始める。

皇帝はまだ信じていた。

モスクワを占領すれば、ロシア皇帝アレクサンドル一世は必ず講和を求めてくる、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ