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皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


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第二十一話:血染めの平原 ― ボロジノ前夜

1812年9月5日


皇帝の天幕。

ナポレオンは蝋燭の明かりの下で、ベルティエから渡された兵力報告書を静かに見つめていた。

一枚、また一枚。

報告書をめくるたびに、部屋の空気は重くなっていく。

ベルティエが口を開いた。

「陛下……現在、戦闘可能な兵力は約十三万五千。」

ナポレオンは顔を上げなかった。

「残りは。」

「病死、脱走、負傷、補給部隊への配置転換、そして行軍中の落伍者です。」

しばらく沈黙が続いた。

ベルティエは、言いにくそうに最後の報告を読み上げる。

「ネマン川を渡った時、グランダルメは約六十万の兵力を擁していました。」

「しかし現在、陛下の直接指揮下でボロジノへ到達した兵は、三分の一にも満たない状況です。」

天幕の中は静まり返った。

まだロシア軍との決戦は一度しか行われていない。

それなのに、四十万を超える兵士たちが隊列から姿を消していた。

敵の銃弾ではない。

灼熱の夏。

果てしなく続く行軍。

飢え。

渇き。

疫病。

倒れた馬。

焦土作戦による補給の崩壊。

コサック騎兵による補給隊への襲撃。

勝利を重ねながらも、グランダルメは日ごとにその巨体を削られていった。

ナポレオンはゆっくりと地図の上へ手を置いた。

ネマン川からボロジノまでの一本の進軍路。

その線は、勝利への道ではなかった。

兵士たちの命で描かれた、長い血の跡だった。

ミュラが沈黙を破る。

「陛下……。」

「まだ戦えます。」

ナポレオンは静かにうなずいた。

「戦える。」

その声には、皇帝としての揺るぎない意志があった。

だが、その瞳の奥には、誰にも見せたことのない一瞬の憂いが宿っていた。

六十万の大陸軍。

ヨーロッパ最強と謳われた軍勢は、まだ勝ち続けている。

しかし、その勝利の代償は、あまりにも大きかった。

そして、その先に待つボロジノの戦場は、生き残った兵士たちに、さらに想像を絶する犠牲を要求することになる。


スモレンスクを発ったグランダルメは、なおも東へ進み続けていた。

しかし、その姿はネマン川を渡った日の軍勢とは、もはや別物だった。

埃にまみれた軍服。

痩せ細った馬。

破れた軍靴。

病に倒れた兵士。

長く伸びた補給線は何度も寸断され、焦土作戦によって現地で食料を調達することもできない。

それでも軍は前へ進む。

「モスクワまで行けば終わる。」

その希望だけが、兵士たちを歩かせていた。


その頃、モスクワ。

ロシア皇帝アレクサンドル一世は、新たな総司令官を任命していた。

七十歳を超える老将。

ミハイル・クトゥーゾフ。

彼が司令部へ姿を現すと、将軍たちは一斉に立ち上がった。

クトゥーゾフは地図を見つめ、しばらく黙っていた。

やがて静かに言う。

「退き続ければ、軍は助かる。」

その言葉に誰もがうなずいた。

だが、老将は続けた。

「しかし、モスクワは違う。」

部屋の空気が張り詰める。

「モスクワを戦わずに渡せば、ロシア軍は戦う理由を失う。」

将軍たちは顔を見合わせた。

クトゥーゾフは地図の一点を指差す。

「ここだ。」

小さな村。

ボロジノ。

「ここで皇帝ナポレオンを迎え撃つ。」


ロシア軍は直ちに陣地構築を始めた。

兵士たちは昼夜を問わず土を掘る。

高さ二メートルを超える土塁。

深い壕。

砲台。

森は切り倒され、巨大な防御陣地が築かれていく。

中央にはラエフスキー堡塁。

左翼にはバグラチオン・フレッシュ。

幾重にも重なる砲兵陣地。

一人の工兵が汗をぬぐった。

「まるで城を造っているようだ。」

隣の兵士が首を振る。

「違う。」

「墓場だ。」


九月六日。

フランス軍前衛。

ミュラが丘を駆け上がる。

眼下には、延々と続くロシア軍の陣地。

無数の大砲が朝日に輝いていた。

「……ようやく止まったか。」

彼は思わず笑った。

「陛下!」

ミュラは皇帝のもとへ駆け寄る。

「敵は逃げません。」

「そうか。」

ナポレオンは望遠鏡を受け取る。

長い時間、何も言わない。

やがて静かに口を開く。

「やっと決戦になる。」

ベルティエが尋ねる。

「総兵力は。」

「フランス軍約十三万。」

「ロシア軍約十二万。」

ベルティエはさらに続けた。

「双方合わせて一千門以上の大砲があります。」

ナポレオンは苦笑した。

「明日は……ヨーロッパ中が震えるな。」


夕暮れ。

両軍の野営地には無数の焚き火が灯る。

フランス軍では、兵士たちが乾パンを割っていた。

固く、歯が立たない。

水でふやかしてようやく飲み込める。

若い兵士が小さく笑う。

「パリへ帰ったら、母さんのスープを腹いっぱい食べたい。」

古参兵は黙って空を見た。

「帰れればな。」

沈黙が流れる。


皇帝の天幕。

ナポレオンは一人、地図を見つめていた。

そこへダヴー元帥が入ってくる。

「陛下。」

「何だ。」

「敵左翼を大きく迂回すべきです。」

地図の上に指を走らせる。

「ここへ回り込めば、敵軍を包囲できます。」

ナポレオンは考え込む。

優れた作戦だった。

しかし兵たちは疲れ切っている。

大きく迂回すれば、さらに時間がかかる。

彼はゆっくり首を振った。

「いや。」

「正面から突破する。」

ダヴーは驚いた。

「陛下、それでは損害が……。」

「承知している。」

ナポレオンは静かに言った。

「だが明日、私はロシア軍をここで捕まえる。」


夜更け。

皇帝は天幕を出て、一人で陣地を歩いた。

遠くにロシア軍の焚き火が見える。

まるで夜空の星が地上へ降りたようだった。

副官が近づく。

「陛下、お休みください。」

ナポレオンは首を横に振る。

「眠れん。」

少し間を置き、ぽつりと言った。

「明日は、多くの者が死ぬ。」

副官は何も答えられなかった。

ナポレオンは静かに軍帽を握りしめる。

「勝利は得られる。」

その声は自分自身に言い聞かせるようでもあった。

「しかし、その代償はいかほどになるのか……。」

夜風が草原を渡る。

誰も知らなかった。

翌九月七日。

この平原は、一日で七万人を超える死傷者を出す、ナポレオン戦争最大の激戦地となることを。

夜明けまで、あとわずかだった。

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