第二十話:炎の城壁 ― スモレンスク攻防戦
1812年8月。
ロシア軍司令部では大きな人事が行われていた。
これまで総司令官を務めていたミハイル・バルクライ・ド・トーリは、ナポレオン軍の侵攻に対し、戦力を温存するために後退を続けるいわゆる焦土作戦をとっていた。
しかし、その戦い方に兵士たちは不満を募らせる。
「また退くのか!」
「このままではモスクワまで敵に渡してしまう!」
貴族や将軍たちからも批判が相次ぎ、ついにミハイル・バルクライ・ド・トーリは総司令官を解任された。
その後任として任命されたのが、老将ミハイル・クトゥーゾフだった。
長年の経験を持つ名将の登場に、兵士たちは歓声を上げる。
「クトゥーゾフ将軍だ!」
「これでロシアは戦う!」
総司令官となったクトゥーゾフは、集まった将軍たちを見回した。
部屋は静まり返る。
彼はゆっくりと口を開いた。
「諸君。」
「バルクライ将軍は卑怯だったわけではない。」
将軍たちは顔を見合わせる。
「彼はロシア軍を守るため、あえて退き続けた。」
一拍置いて続ける。
「だが、兵は退くだけでは戦えぬ。」
地図の上に手を置く。
「いずれ必ず、ナポレオンと決戦を行う。」
将軍の一人が尋ねる。
「どこで迎え撃つのでしょうか。」
クトゥーゾフは静かに答えた。
「モスクワへの道。」
「祖国を守る戦いを、兵士たちに示すのだ。」
部屋の空気が変わる。
将軍たちは立ち上がり、一斉に敬礼した。
「ロシアのために!」
クトゥーゾフは力強くうなずく。
「ナポレオンは確かに史上最高の将軍だ。」
「しかし、ここはロシアだ。」
窓の外には果てしない大地が広がっていた。
「この広大な国土こそが、我々最大の味方となる。」
その頃、はるか西ではナポレオン率いる六十万を超える大軍が、ゆっくりとロシア国境へ向けて進軍を開始していた。
ヨーロッパ最大の戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。
焦土となったロシアの大地を越え、ナポレオン率いるグランダルメ(大陸軍)はついに古都スモレンスクの城壁を望んだ。
朝靄の向こうに、赤茶けた城壁と黄金の教会が浮かび上がる。
その光景を見た兵士たちは歓声を上げた。
「スモレンスクだ!」
「ようやく敵を捕らえた!」
「これで戦争は終わる!」
歓声は隊列の最後尾まで伝わっていく。
ミュラは双眼鏡を下ろし、満足げに笑った。
「陛下、今度こそ逃がしません。」
ナポレオンは城壁を見つめたまま答える。
「……そうあってほしいものだ。」
その城壁の向こうには、ロシア軍の主力が集結していた。
総司令官クトゥーゾフはまだ着任前で、実際の指揮は解任されたミハイル・バークレイ・ド・トーリとピョートル・バグラチオンが執っていた。
長く続いた後退も、ここで終わる。
誰もがそう信じていた。
8月16日。
夜明けとともに、フランス砲兵が一斉に火を噴いた。
轟音。
大地が震える。
数百門の大砲が、黒い煙と炎を吐き出した。
石造りの城壁に砲弾が叩きつけられる。
教会の鐘楼が崩れ、屋根瓦が宙を舞う。
「撃ち続けろ!」
砲兵指揮官の怒号が響く。
火薬の臭いが風に乗り、戦場を覆った。
その直後だった。
「前進!」
ダヴーの第一軍団が城壁へ殺到する。
梯子を担いだ工兵が駆ける。
銃弾が雨のように降り注ぐ。
一人倒れ、また一人倒れる。
それでも兵士たちは止まらなかった。
「皇帝陛下万歳!」
叫び声とともに城壁へ取りつく。
城壁の上ではロシア兵が銃剣を構え、石や丸太を落とし、必死に抵抗していた。
そこへ右翼からネイの軍団が突入する。
「押し返せ!」
「いや、押し切れ!」
煙の中では敵も味方も判別できない。
銃声と悲鳴だけが響き続ける。
丘の上では、ナポレオンが望遠鏡を手に戦場を見つめていた。
ベルティエが静かに言う。
「陛下、敵は粘っています。」
「わかっている。」
「近衛軍を投入しますか。」
ナポレオンは答えなかった。
近衛軍は皇帝最後の切り札。
ここで使えば勝てるかもしれない。
だが、この先にはさらに大きな決戦が待っているかもしれない。
長い沈黙の末、彼は首を振った。
「まだだ。」
ベルティエは静かにうなずく。
「承知しました。」
夕暮れ。
ようやくフランス軍は城壁の一角を突破した。
兵士たちが歓声を上げる。
「勝った!」
「スモレンスクは我々のものだ!」
ミュラは剣を掲げる。
「敵は逃げるぞ!追撃だ!」
しかし、その瞬間だった。
城内のあちこちから炎が立ち上る。
「火事だ!」
「違う!」
ベルティエが叫ぶ。
「ロシア軍が自ら火を放った!」
乾いた木造家屋は瞬く間に燃え広がる。
炎は教会を包み、倉庫を飲み込み、黒煙が空を覆った。
風にあおられた火の粉が城内を舞い、街全体が巨大なかがり火と化していく。
兵士たちは立ち尽くした。
「食料庫は!」
「燃えています!」
「弾薬庫は!」
「すでに爆破されました!」
轟音。
火柱が夜空を赤く染める。
ミュラは唇を噛んだ。
「またか……。」
翌朝。
炎はなお燻っていた。
ナポレオンは焼け跡となった広場を歩く。
足元には黒く焦げた梁。
崩れ落ちた教会。
灰の中には、焼けた荷車の車輪が半ば埋もれている。
彼は一握りの灰を拾い、静かにつぶやいた。
「勝った……。」
その声には、勝者の喜びはなかった。
ベルティエが近づく。
「陛下。」
「敵軍は。」
「昨夜のうちに東へ退却しました。」
「食料は。」
「ほとんど残されておりません。」
再び沈黙が落ちる。
戦術的には勝利だった。
しかし、皇帝が求めていたものは違う。
ロシア軍主力の撃滅。
講和。
戦争の終結。
そのどれも手に入らなかった。
ナポレオンは燃え尽きたスモレンスクを振り返る。
「ロシア軍は異常だ…自国の民が飢えるのをわかっていて食料を燃やすなど狂気の沙汰としか思えん……。」
ゆっくりと言葉を続ける。
「まだ、私に本当の勝利を与えようとはしない。」
ロシアの夏の異常気象、焦土作戦による水不足、食料不足のせいでナポレオン率いるグランダルメ(大陸軍)は病気が蔓延し、あわせて飢餓により倒れる兵士が続出していた。
遠く東の空には、新たな土煙が立っていた。
退却するロシア軍。
その先にはモスクワへの一本道が続いている。
そして、その道の途中に、一つの村があった。
**ボロジノ。**
そこは、皇帝ナポレオンと焦土作戦を続けていたロシア帝国が初めて真正面から激突する、血と硝煙の戦場となるのである。




