第十九話:焦土 ― 見えない敵
1812年7月中旬。
ナポレオン率いる六十万のグランダルメ(大陸軍)はなおも東へ進み続けていた。
しかし、奇妙なことがあった。
敵がいない。
昨日も。
今日も。
ロシア軍は姿を見せない。
「また退いたのか……。」
ミュラは双眼鏡を下ろし、不満そうに鼻を鳴らした。
「陛下、敵は臆病者ばかりです。追いつけば、一日で片がつきます。」
ナポレオンは馬上で首を振る。
「いや。」
その目は遠くの森を見据えていた。
「あれは臆病ではない。」
「我々を誘っている。」
ベルティエが地図を広げる。
「ロシア軍は、一日二十キロ以上の速度で後退しています。」
「補給庫も放棄しています。」
ナポレオンは静かに言った。
「放棄ではない。」
「焼いているのだ。」
その言葉どおりだった。
午後、先遣隊が最初の村へ到着する。
兵士たちは歓声を上げた。
「村だ!」
「食料があるぞ!」
飢えた兵士たちは一斉に駆け出した。
しかし、村へ足を踏み入れた瞬間、その足が止まる。
静かだった。
人影はない。
家畜の鳴き声もない。
井戸には毒が投げ込まれており蓋がされ、納屋は空っぽ。
そして村の中央では、まだ黒い煙が空へ昇っていた。
「……焼かれている。」
一人の兵士がつぶやく。
穀物倉は灰になり、小麦畑には火が放たれていた。
乾いた風が灰を巻き上げる。
「何も残っていない……。」
その晩、皇帝の天幕。
ベルティエは報告書を差し出した。
「陛下。」
「読め。」
「本日確保できた食料、予定の二割。」
「馬の飼料、一割以下。」
「井戸の多くは埋められています。」
ナポレオンは黙って報告書を閉じた。
「予想以上だな。」
ベルティエは慎重に言葉を選ぶ。
「ロシア軍は、土地を捨てています。」
「いや。」
ナポレオンは首を振る。
「土地ではない。」
「時間を買っている。」
天幕の外では、飢えた馬が弱々しくいなないた。
その数日後。
補給部隊が到着するはずだった。
しかし、待てど暮らせど姿は見えない。
ようやく現れたのは、数十台の荷馬車だけだった。
しかも、その多くは空だった。
「何があった?」
補給隊長は泥だらけの顔を上げた。
「ロシアのコサック兵です。」
「森の中から突然現れ、最後尾の車列を襲いました。」
「荷馬車に火を放ち、護衛を切り伏せると、すぐに姿を消しました。」
ミュラが拳を机へ叩きつける。
「追え!」
「追いました。」
隊長は悔しそうに首を振る。
「しかし、森へ逃げ込まれると追いつけません。」
ナポレオンは地図を見つめたまま言う。
「それが敵の狙いだ。」
彼は将校たちを見渡す。
「ロシア軍は我々を戦場では倒せない。」
「だから補給を殺す。」
誰も反論しなかった。
数日後。
道端には、倒れた馬が何頭も横たわっていた。
暑さ。
飢え。
疲労。
飼料不足。
砲兵隊は泣く泣く重い大砲を道端へ残していく。
「この砲は置いていけ。」
砲兵大尉の声が震える。
兵士たちは誰一人返事をしなかった。
戦友を置き去りにするような思いだった。
夜になると、焚き火を囲む兵士たちの声も小さくなった。
「乾パンが半分になった。」
「水も残り少ない。」
「故郷では、もう麦の収穫が始まる頃だな……。」
笑う者はいなかった。
その頃、ロシア軍司令部では、総司令官クトゥーゾフが将軍たちに語っていた。
「ナポレオンは勝利を急ぐ。」
老人は地図の上に指を滑らせる。
「ならば、急がせればよい。」
「食料を焼け。」
「橋を落とせ。」
「井戸を埋めよ。」
「村人は避難させろ。」
若い将軍が驚いた表情を見せる。
「自国の村まで焼くのですか。」
クトゥーゾフは静かに答えた。
「村は建て直せる。」
その視線は西を向いていた。
「祖国は、一度失えば戻らぬ。」
命令は各地へ伝えられた。
炎は村から村へと広がる。
畑は焼かれ、倉庫は灰となり、家畜は連れ去られる。
ナポレオンが手に入れるのは、焼け焦げた大地だけだった。
ある夕暮れ、皇帝は丘の上から黒煙の立ち上る地平線を眺めていた。
ミュラが馬を寄せる。
「陛下。」
「何だ。」
「敵は逃げ続けています。」
ナポレオンはゆっくり答えた。
「違う。」
「我々が敵の望む道を歩かされている。」
その声には、遠征が始まって以来、初めてわずかな疲れが滲んでいた。
しかし、それでも彼は前を向く。
「あと一度。」
「あと一度だけ、ロシア軍が決戦に応じれば終わる。」
その希望だけが、六十万の軍を支えていた。
だが、その決戦の舞台となるスモレンスクは、すでに炎に包まれようとしていた。




