第十八話:灼熱の大地 ― 見えない敵
第十八話:灼熱の大地 ― 見えない敵
1812年6月下旬。
ネマン川を渡ったグランダルメは、整然とロシアの大地を進んでいた。
六十万を超える兵士。
二十万頭近い馬。
千門を超える大砲。
果てしなく続く荷馬車の列は、地平線の彼方まで伸びている。
ミュラは馬上からその光景を見渡し、豪快に笑った。
「陛下、これほどの軍勢を見たら、ロシア軍も震え上がるでしょう。」
ナポレオンは遠くの空を見つめた。
「震えるかどうかは、戦場で決まる。」
そのとき、熱い風が吹いた。
六月とは思えぬ乾いた風だった。
砂埃が舞い上がり、兵士たちは思わず顔を覆う。
「暑い……。」
誰かがつぶやいた。
太陽は容赦なく照りつけ、軍帽の中まで焼くような熱が入り込む。
革の水筒は昼には空になり、乾いた喉は唾さえ飲み込めなくなった。
「水だ……。」
「井戸はないのか。」
「村まであと何キロだ?」
行軍の速度は次第に落ち始めた。
昼になると気温はさらに上がる。
道には細かな砂が積もり、一歩進むたびに白い土煙が立ち上る。
その埃を吸い込んだ兵士たちは激しく咳き込み、汗で濡れた顔は土にまみれた。
行軍の列は、まるで砂嵐の中を進んでいるようだった。
さらに苦しめたのは、水不足だけではない。
炎天下で傷んだ食料から病が広がり始める。
下痢、発熱、脱水。
軍医たちは休む間もなく兵士を診察したが、薬は足りず、水も不足していた。
毎朝、道端には動かなくなった兵士が横たわっていた。
敵の銃弾ではない。
暑さが命を奪っていた。
ある夕暮れ、ベルティエは天幕で報告書を広げた。
「陛下。」
ナポレオンは書類から目を上げる。
「何だ。」
「戦闘はありません。」
「そうだな。」
「ですが、本日の行軍だけで数千名が隊列を離れました。」
部屋に沈黙が落ちる。
「熱射病、脱走、病気、馬の斃死……。」
ベルティエは静かに続けた。
「軍は、戦わずして少しずつ痩せています。」
ナポレオンは地図へ視線を落とした。
まだロシア軍との本格的な戦闘は一度もない。
それなのに、軍は確実に消耗していた。
「補給隊は。」
「予定より三日遅れています。」
「理由は。」
「道路です。」
ベルティエは苦々しく答えた。
「この暑さで乾いた土が砕け、荷車の車輪が深く埋まります。馬も次々と倒れています。」
そのとき、天幕の外が騒がしくなった。
ミュラが勢いよく入ってくる。
「陛下!」
「どうした。」
「先遣隊が村を見つけました。」
「食料か。」
ミュラは首を横に振った。
「井戸はあります。」
「だが……。」
「水が干上がっています。」
ナポレオンはゆっくりと立ち上がった。
村へ向かうと、畑はひび割れ、麦は茶色く枯れ始めていた。
井戸の底には泥が少し残るだけだった。
一人の老農夫が震えながら言う。
「こんな夏は……見たことがありません。」
ナポレオンは空を見上げる。
雲一つない青空。
まるで自然そのものが、侵入者を拒んでいるかのようだった。
その夜。
ようやく空に黒い雲が現れた。
兵士たちは歓声を上げる。
「雨だ!」
しかし、その喜びは長く続かなかった。
激しい雷鳴とともに豪雨が降り注ぐ。
乾き切った大地は水を吸いきれず、一瞬にして道は泥の海へと変わった。
荷馬車は動けない。
砲車はぬかるみに沈み、馬は力尽きて倒れる。
昼は灼熱。
夜は豪雨。
ロシアの夏は、まるで姿を変える敵だった。
翌朝、ナポレオンは泥に埋もれた砲車を見つめ、静かにつぶやく。
「ロシアは……我々と戦う前に、自然を味方につけたか。」
しかし、それはまだ序章に過ぎなかった。
彼らの前には、さらに恐るべき敵が待っている。
村という村から人影が消え、倉庫には穀物一粒残されていない。
ロシア軍は、戦わずして皇帝を飢えさせる道を選んでいた。
**――焦土作戦。**
それこそが、グランダルメ(大陸軍)をゆっくりと蝕み始める、第二の敵だった。




