第十七話:ネマン川渡河(開戦) ― 皇帝、東方へ
1812年6月24日。
夜明け前。
ネマン川には濃い霧が立ち込めていた。
川面は静まり返り、その向こうにはロシア帝国の森が黒い壁のように広がっている。
誰も口を開かなかった。
六十万を超える兵士たちは、ただ皇帝の到着を待っていた。
歩兵、騎兵、砲兵。
ポーランド槍騎兵、近衛擲弾兵、オランダ兵、イタリア兵、ザクセン兵、バイエルン兵。
ヨーロッパ各地から集められた兵士たちが、一つの旗の下に立っていた。
その数は、かつて世界のどの王も率いたことのない大軍であった。
やがて、一頭の灰色の馬が霧の中から姿を現す。
「皇帝陛下だ……。」
ささやきが波のように広がる。
ナポレオン・ボナパルトは馬を止め、ゆっくりと川を見つめた。
静かな流れだった。
しかし、その向こうにはヨーロッパの運命が待っていた。
ベルティエが地図を広げる。
「陛下、橋の架設が完了しました。」
工兵隊は一晩で三本の浮橋を完成させていた。
樽と舟をつなぎ、その上に厚い板を敷き詰めた橋である。
砲兵隊が渡っても耐えられるよう、何度も補強が施されていた。
「よくやった。」
ナポレオンは短く答えた。
その横で、ミュラが派手な羽飾りの帽子を揺らしながら笑う。
「陛下、ロシア軍は逃げ腰です。今なら一気にモスクワまで駆け抜けられます。」
「焦るな、ミュラ。」
ナポレオンは目を細めた。
「敵は戦場を選んでいる。」
その言葉に、騎兵王ミュラも口を閉ざした。
ナポレオンはロシア軍の総司令官、バークレイ・ド・トーリが不用意な決戦を避ける人物であることを知っていた。
勝負はまだ始まってもいない。
その時、一人の伝令が駆け込んできた。
「陛下、先遣隊がロシア領への進入を開始しました!」
ナポレオンは軍帽を取り、兵士たちを見渡した。
朝日が霧を黄金色に染め始める。
「兵士たち。」
その声は静かだった。
しかし、何万という兵士たちの耳に届いた。
「第二のポーランド戦争が始まる。」
兵士たちの背筋が伸びる。
「ロシアは、自ら約束を破った。」
「我々は征服のためではない。」
「ヨーロッパに平和を取り戻すために進軍する。」
軍旗が風を受けて翻る。
「諸君がこれまで示してきた勇気を、今日も私は信じている。」
ナポレオンは右手を高く掲げた。
「前進せよ!」
その瞬間。
太鼓が鳴った。
ラッパが響く。
「皇帝陛下万歳!」
「ヴィーヴ・ランプルール!」
歓声がネマン川を揺らした。
先頭を進むのは近衛兵。
その後ろに歩兵師団。
さらに砲兵隊、騎兵隊、補給車列が果てしなく続く。
橋は絶え間なく震えた。
荷馬車には乾パン、小麦粉、塩漬け牛肉、火薬、砲弾が積まれている。
鍛冶屋、軍医、パン職人、荷役夫たちも列に加わる。
一つの軍隊ではない。
一つの国家が、そのまま東へ歩き出したかのようだった。
しかし、その壮観な行軍を見つめながら、一人の古参兵がぽつりとつぶやいた。
「……ロシアは広すぎる。」
隣の兵士が笑う。
「何を弱気なことを。皇帝と一緒なら三か月で終わるさ。」
古参兵は黙って遠くを見た。
森の奥は、どこまでも暗かった。
その頃、ロシア軍司令部。
バークレイ・ド・トーリは報告を受けても表情を変えなかった。
「フランス軍、ネマン川を渡りました。」
参謀が息をのむ。
「迎え撃ちますか。」
バークレイは首を横に振った。
「いや。」
彼は地図の上をゆっくり指でなぞる。
「退く。」
部屋がざわめいた。
「しかし、それでは領土を失います!」
「土地は取り返せる。」
バークレイは静かに答えた。
「兵は、取り返せない。」
彼はさらに続ける。
「皇帝ナポレオンは戦いを望んでいる。」
「ならば、戦わなければよい。」
その一言が、後に世界を震わせるロシア軍の戦略――焦土作戦の始まりだった。
一方、ナポレオンはまだ知らなかった。
目の前の敵はロシア軍ではない。
果てしない距離。
尽きることのない補給。
そして、この広大な大地そのものが、彼を飲み込もうとしていることを。




