第十六話:ロシア遠征 ー 皇帝、六十万の軍を動かす
1812年 春。
パリ、テュイルリー宮殿。
皇帝ナポレオン・ボナパルトは、一枚の報告書を静かに机へ置いた。
「……アレクサンドルは、大陸封鎖を破ったか。」
部屋には重い沈黙が流れる。
参謀総長ルイ=アレクサンドル・ベルティエが口を開いた。
「ロシアの港には再びイギリス船が入り、小麦や木材の積み出しが始まっています。」
ナポレオンは窓の外を見つめた。
「私は何度も警告した。」
振り返る。
その瞳には怒りよりも、冷たい決意が宿っていた。
「ならば、皇帝同士で決着をつけよう。」
その一言で、ヨーロッパ全土が動き始めた。
命令は帝国の隅々まで駆け巡る。
「総動員。」
フランスだけではない。
イタリア王国、ライン同盟、ワルシャワ公国、オランダ、ナポリ、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク、ウェストファリア――。
皇帝の支配下にある国々は、兵士を送り出した。
集結した兵力は、およそ六十万人。
人類史上かつてない規模の遠征軍。
それが**グランダルメ(大陸軍)**だった。
歩兵だけで四十万人以上。
騎兵は約八万人。
砲兵は千門を超える大砲を擁し、それを曳く数万頭の馬が続く。
工兵隊は橋を架けるための資材を運び、軍医団は野戦病院の器材を積み込む。
鍛冶屋、車輪職人、パン職人、仕立て屋、通訳、測量士、郵便係。
彼らもまた軍隊の一員だった。
一人の兵士の背後には、さらに多くの人々が支えていたのである。
補給もまた、戦争だった。
参謀たちは巨大な地図を広げる。
「兵士一人が一日に必要とするパンは約七百五十グラム。」
「肉は約二百五十グラム。」
「馬一頭には十キログラム以上の飼料が必要です。」
ベルティエが計算を書き連ねる。
「六十万人なら、一日に四百五十トンを超えるパンが必要になります。」
部屋が静まり返る。
さらに別の参謀が続けた。
「騎兵と砲兵を支える馬は二十万頭を超えます。馬だけで一日に二千トン近い飼料を消費します。」
誰も口を開かなかった。
ナポレオンだけが地図を見つめている。
「運べるか。」
「可能です。ただし……」
ベルティエは言葉を選ぶ。
「補給線が保たれる限りは。」
その「限り」という一語が、部屋の空気を重くした。
食料庫には、小麦粉、乾パン、塩漬け牛肉、塩漬け豚肉、米、豆、チーズ、ワイン、ブランデーが山のように積み上げられた。
弾薬庫では銃弾が樽に詰められ、火薬樽が荷馬車へ積み込まれる。
鍛冶屋は夜を徹して馬の蹄鉄を打ち続けた。
軍服を縫う針は休むことなく動き、砲兵たちは砲車の車軸に油を差す。
ヨーロッパ全土が、一つの軍隊を動かすために働いていた。
それは戦争ではなく、一つの国家を丸ごと移動させるような事業だった。
ある夜、ミュラが皇帝の天幕を訪れた。
「陛下。」
「入れ。」
「本当にロシアへ行かれるのですか。」
ナポレオンは地図から目を離さない。
「行く。」
「遠すぎます。」
「だから敵は安心している。」
ミュラは苦笑した。
「帰り道まで考えていますか。」
皇帝はゆっくり顔を上げた。
「私は勝利への道だけを考える。」
その言葉に、ミュラは何も返せなかった。
1812年6月24日。
夜明け。
霧の向こうを、一本の川が静かに流れていた。
ネマン川。
その向こうが、ロシア帝国だった。
ナポレオンは馬を止める。
眼前には、果てしない数の兵士。
歩兵。
騎兵。
砲兵。
軍旗は風を受け、何百もの連隊が整然と並んでいる。
彼は静かに軍帽を取った。
「兵士たち。」
その声は、何十万もの兵の上を渡っていく。
「第二のポーランド戦争が始まる。」
兵士たちは息をのむ。
「この戦争は短い。」
「勝利は諸君の勇気と規律によってもたらされる。」
軍旗が一斉に揺れた。
太鼓が鳴る。
ラッパが響く。
そして、六十万のグランダルメがネマン川を渡り始めた。
その誰もが信じていた。
クリスマスまでには、パリへ凱旋できると。
しかし、その先で彼らを待っていたのは、ロシア軍だけではなかった。
距離。
飢え。
泥。
そして――広大なロシアの夏と冬。
それこそが、皇帝ナポレオン最大の敵となるのである。




