表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/40

第十六話:ロシア遠征 ー 皇帝、六十万の軍を動かす

1812年 春。

パリ、テュイルリー宮殿。

皇帝ナポレオン・ボナパルトは、一枚の報告書を静かに机へ置いた。

「……アレクサンドルは、大陸封鎖を破ったか。」

部屋には重い沈黙が流れる。

参謀総長ルイ=アレクサンドル・ベルティエが口を開いた。

「ロシアの港には再びイギリス船が入り、小麦や木材の積み出しが始まっています。」

ナポレオンは窓の外を見つめた。

「私は何度も警告した。」

振り返る。

その瞳には怒りよりも、冷たい決意が宿っていた。

「ならば、皇帝同士で決着をつけよう。」

その一言で、ヨーロッパ全土が動き始めた。

命令は帝国の隅々まで駆け巡る。

「総動員。」

フランスだけではない。

イタリア王国、ライン同盟、ワルシャワ公国、オランダ、ナポリ、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク、ウェストファリア――。

皇帝の支配下にある国々は、兵士を送り出した。

集結した兵力は、およそ六十万人。

人類史上かつてない規模の遠征軍。

それが**グランダルメ(大陸軍)**だった。

歩兵だけで四十万人以上。

騎兵は約八万人。

砲兵は千門を超える大砲を擁し、それを曳く数万頭の馬が続く。

工兵隊は橋を架けるための資材を運び、軍医団は野戦病院の器材を積み込む。

鍛冶屋、車輪職人、パン職人、仕立て屋、通訳、測量士、郵便係。

彼らもまた軍隊の一員だった。

一人の兵士の背後には、さらに多くの人々が支えていたのである。

補給もまた、戦争だった。

参謀たちは巨大な地図を広げる。

「兵士一人が一日に必要とするパンは約七百五十グラム。」

「肉は約二百五十グラム。」

「馬一頭には十キログラム以上の飼料が必要です。」

ベルティエが計算を書き連ねる。

「六十万人なら、一日に四百五十トンを超えるパンが必要になります。」

部屋が静まり返る。

さらに別の参謀が続けた。

「騎兵と砲兵を支える馬は二十万頭を超えます。馬だけで一日に二千トン近い飼料を消費します。」

誰も口を開かなかった。

ナポレオンだけが地図を見つめている。

「運べるか。」

「可能です。ただし……」

ベルティエは言葉を選ぶ。

「補給線が保たれる限りは。」

その「限り」という一語が、部屋の空気を重くした。

食料庫には、小麦粉、乾パン、塩漬け牛肉、塩漬け豚肉、米、豆、チーズ、ワイン、ブランデーが山のように積み上げられた。

弾薬庫では銃弾が樽に詰められ、火薬樽が荷馬車へ積み込まれる。

鍛冶屋は夜を徹して馬の蹄鉄を打ち続けた。

軍服を縫う針は休むことなく動き、砲兵たちは砲車の車軸に油を差す。

ヨーロッパ全土が、一つの軍隊を動かすために働いていた。

それは戦争ではなく、一つの国家を丸ごと移動させるような事業だった。

ある夜、ミュラが皇帝の天幕を訪れた。

「陛下。」

「入れ。」

「本当にロシアへ行かれるのですか。」

ナポレオンは地図から目を離さない。

「行く。」

「遠すぎます。」

「だから敵は安心している。」

ミュラは苦笑した。

「帰り道まで考えていますか。」

皇帝はゆっくり顔を上げた。

「私は勝利への道だけを考える。」

その言葉に、ミュラは何も返せなかった。

1812年6月24日。

夜明け。

霧の向こうを、一本の川が静かに流れていた。

ネマン川。

その向こうが、ロシア帝国だった。

ナポレオンは馬を止める。

眼前には、果てしない数の兵士。

歩兵。

騎兵。

砲兵。

軍旗は風を受け、何百もの連隊が整然と並んでいる。

彼は静かに軍帽を取った。

「兵士たち。」

その声は、何十万もの兵の上を渡っていく。

「第二のポーランド戦争が始まる。」

兵士たちは息をのむ。

「この戦争は短い。」

「勝利は諸君の勇気と規律によってもたらされる。」

軍旗が一斉に揺れた。

太鼓が鳴る。

ラッパが響く。

そして、六十万のグランダルメがネマン川を渡り始めた。

その誰もが信じていた。

クリスマスまでには、パリへ凱旋できると。

しかし、その先で彼らを待っていたのは、ロシア軍だけではなかった。

距離。

飢え。

泥。

そして――広大なロシアの夏と冬。

それこそが、皇帝ナポレオン最大の敵となるのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ