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皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


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第二十五話:沈黙の皇帝

モスクワは燃えた。

四日四晩。

炎は街を飲み込み続けた。

豪華な宮殿も。

歴史ある教会も。

商人たちの屋敷も。

市場も。

倉庫も。

すべてが灰となっていく。

焼失した家屋は六千棟を超え、街の大半は黒く焼け焦げた廃墟へと姿を変えていた。

それでもナポレオンは信じていた。

「アレクサンドルは必ず使者を送ってくる。」

ベルティエは何も答えなかった。

皇帝はクレムリンの一室を執務室とし、毎朝同じことを尋ねた。

「使者は来たか。」

「……まだでございます。」

翌日も。

「使者は。」

「まだです。」

三日後。

「何か返答は。」

「ございません。」

返ってくるのは、いつも同じ答えだった。

しかし、その「待つ時間」こそが、グランダルメの命を静かに奪っていた。

九月下旬。

ロシアの空は鉛色の雲に覆われ、冷たい長雨が何日も降り続いた。

街道は見る間に泥沼へと変わる。

モスクワへ続く一本道では、補給隊の荷車が次々とぬかるみに沈み込んでいた。

「押せ!」

「もう少しだ!」

兵士たちは荷車に肩を当てる。

馬は全身の力を振り絞って引く。

しかし、車輪は深い泥に食い込み、まったく動かない。

やがて力尽きた馬が泥の中へ倒れ、そのまま動かなくなった。

補給隊は何十キロにもわたって立ち往生し、乾パンも弾薬も冬服も、モスクワへ届かなくなっていた。

六十万の大軍を支えるはずだった補給線は、完全に麻痺していたのである。

さらに深刻だったのは軍馬の問題だった。

ロシア軍の馬は、小柄ながら寒さや粗末な餌に強く、草や藁だけでも比較的よく耐えた。

しかし、フランス軍や同盟諸国の大型軍馬は違った。

砲兵馬も騎兵馬も、日頃から燕麦などの穀物や十分な飼葉を与えられることを前提に育てられていた。

その飼葉は、焦土作戦によって焼き払われ、どこにも残っていなかった。

馬たちは日に日に痩せ細り、肋骨が浮かび上がる。

何万頭もの軍馬が飢えと疲労で倒れ、砲兵隊は重い大砲を放棄せざるを得なくなる。

騎兵隊もまた、馬を失えば戦えない。

そしてついに、その日が訪れた。

焚き火の周りに集まる騎兵たち。

鍋の中で煮えていたのは、昨日まで自分たちを戦場へ運んでくれた愛馬の肉だった。

一人の騎兵が、静かにつぶやく。

「昨日まで俺と一緒に戦ってくれたのに……。」

誰も答えなかった。

飢えは、誇りさえ奪っていく。

馬を失った軍は、騎兵の機動力を失い、砲兵は大砲を運べず、補給隊は荷車を動かせなくなった。

グランダルメは戦う前に、その力を少しずつ失っていた。

一方、その頃のロシアでは、まったく逆の光景が広がっていた。

モスクワが焼かれたという知らせは、ロシア全土を震わせた。

教会では鐘が鳴り響き、人々は祖国防衛の祈りを捧げる。

「祖国を救え!」

その叫びに応えるように、農民は鍬を置き、猟師は銃を手に取り、退役兵は再び軍服に袖を通した。

各地から義勇兵や民兵が続々と集まり、正規軍へ合流していく。

フランス軍が一日ごとに兵力を失っていくのとは対照的に、ロシア軍は祖国を守ろうとする民衆の力を得て、その兵力を着実に増やしていた。

ある夜。

ベルティエは新たな報告書をナポレオンの机に置いた。

「陛下……。」

ナポレオンは黙って目を通す。

「補給隊は泥濘のため前進できません。」

「食糧の到着は大幅に遅れています。」

「軍馬の損耗は数万頭に達し、兵士たちは飢えをしのぐため馬肉を食べています。」

ベルティエは一呼吸置いて続けた。

「さらに、ロシア軍には各地から義勇兵が加わり、その兵力は日ごとに増加しております。」

天幕の中は静まり返った。

グランダルメは進めば進むほど弱り、ロシア軍は退けば退くほど強くなる。

この戦争はもはや、一度の会戦で勝敗が決まるものではなかった。

それは、広大な祖国そのものを武器とするロシアと、距離、泥、飢え、そして時間に命を削られるグランダルメとの、終わりなき消耗戦となっていた。


一方、その頃。

はるか東。

サンクトペテルブルク。

ロシア皇帝アレクサンドル一世の執務室。

机の上には、一通の書簡が置かれていた。

ナポレオンからの講和の申し入れである。

重臣が静かに口を開く。

「陛下。」

「モスクワは失われました。」

「今なら講和も……。」

アレクサンドル一世は書簡を見つめたまま動かなかった。

やがて、ゆっくりと立ち上がる。

窓の外には、広大なロシアの森が広がっていた。

「モスクワは焼けた。」

静かな声だった。

「しかし、ロシアは焼けてはいない。」

重臣たちは息をのむ。

アレクサンドル一世は振り返り、はっきりと言った。

「ナポレオンとは講和しない。」

「敵兵が一人でも祖国に残る限り、この戦争は終わらない。」

部屋は静まり返った。

それは、一人の皇帝の決意であると同時に、ロシアという国家の意思でもあった。

その頃、クレムリンではナポレオンが窓の外の灰色の空を見上げていた。

彼はまだ知らない。

この沈黙こそが、グランダルメ(大陸軍)を滅亡へと導く、最も恐るべき敵であることを。

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