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【龍虎の境界 ―第9話:再会は鉄と血の匂い―】

2002年、晩夏。

横浜港を吹き抜ける風は、まだねっとりとした熱と湿気を孕んでいた。

海面は油膜で濁り、鈍い夕日を反射して赤黒く光っている。

第十七埠頭の片隅にある、トタン屋根の古びた組合事務所。

その前の広場では、数十人の港湾労働者たちが、怒号を交えながら集まっていた。

「ふざけるな! 今月末で立ち退けだと!? 俺たちは三十年もここで働いてきたんだぞ!」

「補償金だってスズメの涙じゃねえか。ヤクザのフロント企業に、この港を好きにさせてたまるか!」

【憤怒】

労働者たちの中心で、源さんが深く腕を組み、険しい顔でパイプ椅子に座っていた。

白岩虎伯は、少し離れた資材の陰で、自販機の紙コップのコーヒーをすすりながらその光景を見つめていた。

彼の巨体は、夕闇の中でまるで岩山のように静まり返っている。

ここ数日、第十七埠頭の空気は異常だった。

再開発を名目にした「立ち退き要求」は、日に日にエスカレートしていた。

最初はスーツを着た弁護士風の男が来ていたが、昨日からはあからさまに柄の悪いチンピラがうろつき、重機のケーブルが切断されるなどの嫌がらせが始まっていた。

「……源さん。連中、明日には実力行使に出るかもしれないぜ」

虎伯が紙コップを握りつぶし、ゴミ箱へ放り投げながら歩み寄る。

源さんはヘルメットを脱ぎ、白髪の混じった頭を無造作に掻いた。

「分かってる。だが、こちらから手を出せば、警察も巻き込んで向こうの思う壺だ。……虎伯、お前は絶対に手を出すなよ。お前の拳は、一発で相手を殺しかねない」

「俺は約束は守るよ。……でも、源さんたちがやられるのを黙って見てるつもりはねえからな」

虎伯の言葉に、源さんは短く息を吐き、静かに頷いた。

その時だった。

【接近】

キキィィィッ!!

耳をつんざくようなブレーキ音が、埠頭の静寂を切り裂いた。

ヘッドライトを上向きにした三台の黒いワンボックスカーが、組合事務所の前の広場に乱暴に乗り込んできた。

砂埃が舞い上がり、労働者たちが慌てて道を開ける。

車のドアが一斉に開き、中から金属バットや鉄パイプを手にした若い男たちが二十人ほどなだれ込んできた。

先頭に立っていたのは、足を引きずりながら歩く男――鮫島だった。

鮫島は高級なスーツを着崩し、金縁のサングラスをかけて偉そうに顎を反らしている。

五年前、二中を仕切っていた小賢しい不良は、今や龍也の威光を傘に着た裏社会の「集金係」としてすっかり様変わりしていた。

「おいジジイ共! 期限はとっくに過ぎてんだよ! いつまでこの薄汚えバラックに居座るつもりだ!」

鮫島が、持っていた特殊警棒で、近くにあったドラム缶を思い切り叩きつけた。

ガァンッ! という金属音が響き、労働者たちが身構える。

「帰れ! お前らみたいなチンピラに渡す港はねえ!」

血の気を持て余した若い労働者の一人が、鉄のスパナを握りしめて前に出ようとした。

「やめろ!」

源さんが制止するより早く、鮫島の部下たちが一斉にその若者に飛びかかった。

【暴力の火蓋】

「あがっ……!」

若者の腹部に鉄パイプが容赦なく叩き込まれ、彼がくの字に折れ曲がって倒れ込む。

それを合図に、二十人のチンピラたちが事務所の窓ガラスを割り、外に置かれていた備品を手当たり次第に破壊し始めた。

パリーンッ! ガシャン!

破壊音と怒声が交錯する。

源さんが止めに入ろうとするが、チンピラの一人がバットを振り上げ、源さんの頭を狙った。

その瞬間だった。

【防壁】

ゴッ、という鈍い音が響いた。

振り下ろされた金属バットを、虎伯が左腕一本で受け止めていた。

「……あ?」

バットを振った男が、信じられないものを見るような顔で虎伯を見上げる。

丸太のような虎伯の腕は、バットのフルスイングを直接受けても、微塵も揺らいでいなかった。

「……源さんに触るな」

虎伯は、バットを掴んだまま、右手でその男の顔面を無造作に掴み上げた。

「ひ、ひぃッ……!」

虎伯は殴らなかった。

ただ、そのまま男の体を軽々と持ち上げ、横の海に向かって放り投げた。

ザバーンッ!

悲鳴とともに、男が夜の海へと沈んでいく。

その圧倒的な力の差に、暴れ回っていたチンピラたちの動きがピタリと止まった。

虎伯は、ゆっくりと鮫島の方へ歩き出した。

【戦慄】

鮫島は、その巨体と、見覚えのある傷跡だらけの顔を見て、顔面から一瞬で血の気を失った。

「お、お前……白岩、虎伯……! な、なんでこんな所に……っ!」

鮫島は五年前の、あの高架下のゲームセンターでの惨劇を思い出していた。

自分の膝を砕いたのは龍也だが、五十人の不良を単身で「除雪」するように粉砕していったのは、目の前にいるこの怪物だ。

「鮫島。……お前、まだ龍也のパシリやってるのか」

虎伯の声は、嵐の前の海のように静かだった。

「う、うるせえ! やれ! こいつを殺せ!」

鮫島が後ずさりながら絶叫する。

だが、部下たちは虎伯の纏う異常な覇気に気圧され、誰一人として動くことができなかった。

虎伯がさらに一歩、前へ出ようとしたその時。

【静寂の支配者】

プァァン、という低く重いクラクションの音が、一度だけ埠頭に響いた。

ワンボックスカーの後ろから、ゆっくりと滑り込んできた漆黒の高級セダン。

その車の存在感だけで、現場の暴力の熱が急速に冷却されていくような、異様な空気が漂った。

セダンの後部座席のドアが、音もなく開く。

磨き上げられた黒い革靴が、アスファルトの上に降り立った。

漆黒のチェスターコート。

肩まで伸びた髪。

そして、夜の闇よりもなお暗い、黒いサングラス。

大澤龍也だった。

龍也が車から降り立つと、鮫島をはじめとするチンピラたちが、一斉に道を開け、深く頭を下げた。

コツ、コツ、と。

革靴の音が、静まり返った埠頭に響く。

龍也は、怯える労働者たちを一瞥もせず、ただ真っ直ぐに、虎伯の目の前まで歩み寄った。

五年の空白。

交わるはずのなかった二つの軌道が、今、再び激突した。

「……久しぶりだな、虎伯」

龍也の口から紡がれた言葉には、一切の感情の揺らぎがなかった。

懐かしさも、憎しみもない。

ただの「現状の確認」のような、冷たい響き。

虎伯は、目の前に立つ男を見下ろした。

15歳の頃の、あのヒリヒリとした不良の尖りは消えている。

その代わり、龍也の全身からは、血と札束、そして死の匂いが濃厚に漂っていた。

「……龍也。お前、本当にヤクザの犬になっちまったのか」

虎伯が、ギリリと奥歯を噛み締める。

龍也はコートのポケットから、純銀のジッポーを取り出した。

カチッ。

青い炎が、二人の顔の間に灯る。

龍也は煙草を深く吸い込み、その煙を虎伯の顔に向けてゆっくりと吐き出した。

【断絶】

「犬じゃない。俺がこの街のシステムを動かしている。……ここは明日、更地になる。お前が守ろうとしているその老人たちも、ただの不法占拠のゴミだ」

龍也の言葉に、虎伯の太い腕の血管がブチブチと音を立てて膨張した。

「ゴミだと……? この人たちは、汗水垂らして真面目に生きてきたんだ! お前みたいに、他人の生き血を啜って生きてる奴らと一緒にすんな!」

虎伯が怒鳴り、龍也の胸ぐらを掴もうと右手を伸ばす。

だが。

カチャリ。

【冷たい銃口】

虎伯の手が届くより早く、龍也の右手には、あのロシア製の黒い拳銃――トカレフが握られていた。

銃口が、迷いなく虎伯の眉間にピタリと押し当てられる。

鉄の冷たさが、虎伯の皮膚を通して脳髄まで伝わってきた。

周囲の労働者たちが、銃を見て短い悲鳴を上げる。

「……俺に触るな、虎伯」

龍也のサングラスの奥の瞳は、虎伯が動けば、一秒の躊躇もなく引き金を引くことを告げていた。

15歳の頃に見たあの「狂気」は、今や完全に実務的な「殺意」へと昇華されていた。

「……撃つのか。俺を」

虎伯が、低い声で問う。

「邪魔をするなら、撃つ。……俺にとって、お前はもう『盾』じゃない。ただの障害物だ」

龍也の声には、微かな迷いすら混じっていない。

彼は本気だった。

五年前の絆など、この男の中にはもはや一ミリも残っていないのだ。

その時、二人の間に、静かな足音が近づいてきた。

「……そこまでにしておけ、大澤とやら」

源さんだった。

源さんは、向けられた銃口を見ても全く顔色を変えず、龍也の目の前に立った。

「そのハジキ、安全装置が外れてるぜ。……本気で撃つつもりがねえなら、子供の火遊びはやめとけ」

源さんのその深い眼光を見た瞬間、龍也の瞳孔がわずかに収縮した。

【同類】

龍也は直感で理解した。

この老人は、ただの土方ではない。

自分と同じ、あるいはそれ以上の「血の匂い」を嗅いで生きてきた本物の人間だ。

龍也は数秒の沈黙の後、ゆっくりと銃を下ろし、コートの懐にしまった。

「……明日の夕方だ」

龍也は踵を返し、黒いセダンへと歩き出す。

「明日の夕方までに、この港から全員消えろ。残っている奴は、重機でバラックごと潰す。……虎伯、お前もだ」

セダンのドアが閉まり、車は音もなく闇の中へ消えていった。

鮫島たちも、それに続くように慌てて車に乗り込み、去っていく。

残された埠頭には、破壊された事務所の残骸と、重い絶望の空気が漂っていた。

虎伯は、自分の震える両手を見つめた。

恐怖ではない。

龍也のあの、完全に冷え切った目に対する、底知れない悲しみと怒りによる震えだった。

「……源さん。あいつ、本気だ」

「ああ。あの目は、人間を殺すことに何の疑問も持っていない目だ」

源さんが、散らばったガラスの破片を拾い集めながら答える。

「……どうする? 警察は当てにならねえぞ」

虎伯が問う。

源さんは夜の海を見つめ、静かに答えた。

「俺たちは逃げない。……ここは、俺たちの生きる場所だ。向こうが鉄と火薬で来るなら、俺たちは『土の意地』を見せるしかねえ」

2002年、夏の終わり。

龍と虎の、取り返しのつかない殺し合いの火蓋が、ついに切って落とされた。

――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。

その答えを探す猶予は、残された二十四時間しかなかった。

【第10話:血塗られた夜明け、重機の咆哮】へ続く。

【新規(背景)情報】

【相模会の思惑】

今回の地上げは、龍也の背後にいる桑原翼、そしてさらにその背後にいる広域指定暴力団「相模会」の幹部・黒田の直接の指示によるもの。龍也にとって、これを成功させることは、裏社会における自らの「確固たる地位」を築くための絶対条件となっている。失敗は、龍也自身の死を意味する。

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