龍虎の境界 ―第8話:五年の空白、蠢く影―
2002年、夏。
あの灰色の市営住宅で、二人の少年が別々の道へと歩み出してから、五年の歳月が流れていた。
1997年の金融危機を乗り越え、横浜の街は再開発の熱に浮かれ、表向きの華やかさを増している。
だが、その光が強くなればなるほど、足元に落ちる影はより濃く、より深く沈み込んでいた。
【表の世界:静かなる巨獣】
横浜港・第十七埠頭。
真夏の太陽が、コンクリートの照り返しとなって作業員たちの体力を奪っていく。
その過酷な現場で、一際目を引く巨体があった。
白岩虎伯、20歳。
15歳の頃からさらに一回り以上大きくなった体格は、もはや「筋肉の鎧」という表現すら生ぬるい。
日に焼けた肌には、過去の喧嘩で負った無数の傷跡が白く浮かび上がっている。
灰色の作業着を腰で巻き、タンクトップ姿で二十キロの資材を両手に軽々とぶら下げて歩くその姿は、重機がそのまま人間の形になったようだった。
【沈黙】
「おい虎伯! そっちのパレット、片付け終わったか!」
少し離れた場所から、白髪の混じった源さんが声をかける。
源さんもまた、五年の歳月で確実に老いを見せていたが、その眼光の鋭さだけは健在だった。
「ああ、今終わった。……源さん、少し休めよ。顔色が悪いぞ」
虎伯は資材を静かに下ろし、首のタオルで汗を拭った。
その声は、かつて横浜で暴れ回っていた「狂犬」の面影を全く感じさせないほど、深く、穏やかに澄んでいた。
「バカ言え、お前と一緒にすんな。俺はまだ現役……」
源さんが言いかけたその時だった。
キキーッ、という甲高いブレーキ音とともに、一台の派手な改造車が作業エリアのすぐ脇に急停車した。
中から降りてきたのは、金髪に染め、柄の悪いシャツを着た若い男たちだ。
最近現場に出入りし始めた、下請け業者の若いチンピラたちだった。
「あっちぃなクソが。おいジジイ、そこの自販機で冷たいジュース買ってこいよ」
リーダー格の男が、源さんに向かって顎でしゃくった。
現場の空気が一瞬で凍りつく。
周囲の作業員たちは、虎伯がどう動くかを知っているため、息を呑んで後ずさった。
虎伯は、ゆっくりと歩き出した。
【威圧】
その足音がコンクリートを鳴らすたび、若い男たちの顔から余裕が消えていく。
虎伯が見下ろす形になると、男たちはその異様な威圧感に思わず後ずさった。
「……お前、なんだよ」
男が強がって凄むが、声が上ずっている。
虎伯は右手をゆっくりと持ち上げた。
かつてなら、一秒で相手の顎を粉砕していたその拳。
だが、虎伯のその手は、男の肩をポンと軽く叩いただけだった。
「ここは重機が通るから危ない。車を移動させてくれ。……ジュースなら、俺が奢ってやるよ」
虎伯は静かにそう言うと、自販機で冷えた缶コーヒーを人数分買い、彼らに手渡した。
拍子抜けした男たちは、気圧されたように車に乗り込み、逃げるように去っていった。
源さんが、近づいてきて虎伯の背中を軽く叩いた。
「……大人になったな、虎伯」
「源さんに教わったからな。……無駄な血は流さない。俺の拳は、この現場の連中を守るためにだけ使うんだ」
虎伯は、缶コーヒーのプルタブを開けながら、遠く横浜の高層ビル群を見つめた。
その瞳の奥には、今も消えない「あの男」の影が揺れている。
龍也。
今、どこで何をしているのか。
この五年、一度も顔を合わせていない。噂すら、虎伯の耳には届かなかった。
【裏の世界:冷徹なる支配者】
同じ日の、夜。
みなとみらい地区にそびえ立つ、高級ホテルのスイートルーム。
眼下には横浜の夜景が、まるで宝石箱のように煌めいている。
部屋の中央にある革張りのソファに、一人の男が深く腰掛けていた。
大澤龍也、20歳。
仕立ての良い漆黒のスーツ。
肩まで伸びた髪は後ろで無造作に束ねられ、夜景の光を反射する黒いサングラスがその瞳を完全に隠している。
15歳の頃の尖った雰囲気は消え去り、そこにあるのは、完全に完成された【氷の狂気】だった。
カチッ。
純銀のジッポーライターが、乾いた音を立てる。
龍也は紫煙を細く吐き出し、テーブルを挟んで向かい側に座る男を見据えた。
男は、顔面を蒼白に引き攣らせた中年の実業家だった。
「お、大澤さん……どうか、あと一週間だけ待ってください! 必ず資金は調達します!」
実業家が、床に額を擦りつけるようにして土下座をする。
龍也の背後には、高級なスーツを着こなし、書類の束を抱えた鮫島が立っていた。
かつての不良の面影はなく、完全に龍也の優秀な「秘書」として機能している。
だが、その左足は今も引きずったままであり、龍也への恐怖が骨の髄まで染み込んでいた。
龍也は、グラスに入った氷を指先でカランと鳴らした。
「……一週間? あんたの会社は昨日、三回目の不渡りを出した。もはや市場価値はゼロだ。一週間待ったところで、一円も生み出さない」
龍也の声は、スイートルームの空調よりも冷たかった。
「待ってください! 妻の実家が……!」
【宣告】
「奥さんは、今日の昼に子供を連れて実家に帰ったよ。……そして、その実家の土地の権利書は、すでにうちが押さえている」
「な……っ!?」
実業家が絶望に顔を歪め、へたり込む。
龍也は、懐から一枚の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「生命保険の譲渡証書と、臓器提供の同意書だ。……今すぐサインすれば、奥さんと子供の借金だけはチャラにしてやる。選べ」
それは、暴力すら使わない完全な【殺戮】だった。
肉体を壊すのではなく、人間の社会的な存在そのものを消し去る作業。
この五年で、龍也は桑原翼の下で裏社会のシステムを完全に掌握し、若くして横浜の闇を牛耳るフィクサーの一人へと成り上がっていた。
実業家が震える手でペンを握り、泣きながらサインをする。
「……鮫島。こいつを『病院』へ連れて行け」
「はい、龍也さん」
鮫島が手慣れた様子で実業家を連れ出し、部屋には龍也と、もう一人の人物だけが残された。
「……相変わらず、鮮やかな手並みね」
寝室のドアが開き、バスローブ姿の桑原翼が現れた。
20代後半になった彼女は、より一層の妖艶さと、血の匂いを纏っている。
翼は龍也の隣に座り、その肩に頭を預けた。
「大澤くん。うちのシノギも、随分と大きくなったわね」
「あんたが描いた絵図通りだろ」
龍也は煙草の火を消し、冷たく答える。
翼が、テーブルの上に一つの分厚いファイルファイルを放り投げた。
【新たな盤上】
「次のお仕事よ。……相模会の黒田さんからの、直接の依頼」
龍也の眉が、わずかにピクリと動いた。
相模会。横浜を拠点とする、国内最大級の広域指定暴力団だ。
ついに、本物の極道の中枢が、龍也という駒を動かし始めたのだ。
「……内容は」
「第十七埠頭の再開発利権。市の認可は下りてるんだけど、昔からあそこに居座ってる零細の港湾業者や、古い労働組合が立ち退きを拒否してるのよ」
翼の細い指が、ファイルの中の写真をなぞる。
「黒田さんは、表沙汰にせずにそいつらを『排除』したいの。……大澤くん、あなたの得意なやり方で、彼らを追い詰めてちょうだい」
龍也はファイルを手に取り、無感情にページをめくった。
そこには、立ち退きに反対する労働者たちのリストや、現場の写真が何枚も挟まれていた。
龍也の視線が、ある一枚の写真でピタリと止まった。
【交差点】
写真の端に、小さく写り込んでいる灰色の作業着を着た巨体の男。
画質は粗いが、その分厚い肩幅と、短い金髪、そして見覚えのある傷跡。
「……」
龍也は無言のまま、サングラスの奥の瞳を細めた。
五年間、心の奥底の氷の中に閉じ込めていた記憶が、微かに軋み声を上げる。
白岩、虎伯。
「どうしたの? 知ってる顔でもあった?」
翼が不思議そうに覗き込む。
龍也はファイルをパタンと閉じ、立ち上がった。
「……いや。ただのゴミ掃除だ。すぐに終わる」
龍也は窓際に歩み寄り、横浜港の暗い海を見下ろした。
その顔には、一切の感情が浮かんでいない。
2002年、夏。
大人の思惑という巨大な蜘蛛の巣の中で、決して交わってはならなかった二人の運命が、再び凄惨な音を立てて噛み合おうとしていた。
――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。
十五歳のあの夏に交わした誓いは、もはや互いを縛る呪いでしかなかった。
【登場人物紹介】
【黒田】
所属:広域指定暴力団・相模会 幹部
人物像:横浜の裏社会を牛耳る巨大組織の冷酷なエリートヤクザ。古い極道の「任侠」など微塵も持ち合わせておらず、金と利権のためなら手段を選ばない。警察とも太いパイプを持つ。
役割:龍也と翼を利用し、第十七埠頭の再開発利権を強奪しようと目論む【最大の壁】。この男の登場により、龍也と虎伯は決定的な殺し合いの渦中へと放り込まれることになる。




