龍虎の境界 ―第10話:血塗られた夜明け、重機の咆哮―
2002年、晩夏。
午前五時。
横浜港は、深い灰色の朝靄に包まれていた。
海鳥の鳴き声すら聞こえない。
ただ、寄せては返す波の音と、どこか遠くで鳴る霧笛の低い響きだけが、世界に取り残されたように漂っていた。
第十七埠頭。
組合事務所の前に築かれたバリケードの裏で、白岩虎伯は、冷え切った鉄パイプを両手で握りしめていた。
【静寂】
徹夜で待機していた数十人の労働者たちは、皆一様に口を閉ざし、疲労と緊張で顔を土気色にしている。
彼らの手には、ツルハシ、大型のスパナ、鉄のチェーンなど、仕事で使う道具が【武器】として握られていた。
虎伯は、傍らに座る源さんを見た。
源さんはヘルメットを傍らに置き、クシャクシャになった煙草に火を点けている。
その手は全く震えていない。
これから始まるのが「話し合い」などではなく、一方的な「蹂躙」であることを、この老人は誰よりも深く理解していた。
「……源さん。本当に警察は動かないのか」
虎伯が、静かに問う。
「ああ。昨日、組合の幹部が何度も通報したが、見回りのパトカーが一台来ただけだ。……あの『大澤』って男の背後にいる組織が、完全に警察の頭を押さえ込んでるんだろう」
源さんは煙を吐き出し、立ち上がった。
そして、足元に置いてあった柄の長い大木槌を拾い上げる。
「虎伯。……俺たちが相手にするのは、チンピラじゃない。この街を裏から支配してる『巨大な暴力』そのものだ。死にたくなければ、今からでも逃げろ」
虎伯は答えず、握っていた鉄パイプをコンクリートの地面に一度だけ軽く叩きつけた。
カァンッ。
硬質な音が響く。
それが、虎伯の答えだった。
龍也から逃げることは、自分の過去すべてを否定することになる。
午前五時半。
【地鳴り】
靄の向こうから、重く、腹の底を揺らすようなエンジン音が響いてきた。
一台や二台ではない。
労働者たちが一斉に立ち上がり、バリケード越しに前方を睨みつける。
靄を引き裂くようにして現れたのは、黒塗りのワンボックスカー五台。
そして、その後ろに続く、二台の巨大な黄色い油圧ショベル(重機)だった。
重機のキャタピラが、アスファルトを削りながら進んでくる。
その圧倒的な質量と威圧感に、労働者たちの何人かが思わず後ずさった。
車列が事務所の三十メートル手前で止まる。
ワンボックスカーから、黒いスーツを着た本職のヤクザたちと、作業着を着たフロント企業の男たちが次々と降りてきた。
その数、ざっと五十人。
全員が、樫の木の棒や特殊警棒で武装している。
最後に、最後尾に停まっていた漆黒のセダンから、大澤龍也が降り立った。
【氷の眼差し】
黒いチェスターコートの裾が、海風に煽られて翻る。
夜明けの薄暗い光が、彼の黒いサングラスに冷たく反射した。
龍也は、腕時計を無感情に見やった。
「……約束の時間は過ぎた。これより、不法占拠物の『解体作業』を開始する」
拡声器も使わない、平坦な声。
だが、その声は現場にいる全員の耳に、死神の宣告のようにクリアに届いた。
龍也が顎でしゃくると、重機のエンジンが鼓膜を破るほどの轟音を上げた。
ゴォォォォォッ!!
二台の油圧ショベルが、巨大な鉄の爪を振り上げながら、バリケードに向かって前進を始める。
「ふざけるな! ここは俺たちの場所だ!」
労働者たちが怒号を上げ、重機の前に立ち塞がろうとした。
だが、それを護衛するように前進してきたヤクザたちが、容赦なく労働者たちに襲いかかった。
【開戦】
「退けオラァ!」
先頭にいたヤクザが、樫の棒を振り下ろす。
労働者の男の肩の骨が砕ける嫌な音が響き、悲鳴とともに血が舞う。
「やめろッ!」
虎伯が咆哮を上げ、バリケードを飛び越えた。
突っ込んでくるヤクザの胸ぐらを掴み、そのまま片手で軽々と持ち上げる。
「ぐあッ!?」
虎伯はその男を、別のヤクザの集団に向かって全力で投げつけた。
ボウリングのピンのように三人の男が吹き飛び、アスファルトに叩きつけられる。
「来いッ! お前らの相手は俺だ!」
虎伯は鉄パイプを投げ捨て、素手で構えた。
凶器を持てば、相手を殺してしまうかもしれない。
そのギリギリの理性が、虎伯の行動を制限していた。
だが、相手はプロの暴力装置だ。
「デカい図体しやがって……殺せ!」
五人のヤクザが同時に虎伯に飛びかかる。
虎伯はその連撃を太い腕で受け止め、圧倒的な膂力で弾き返す。
殴るのではなく「払う」だけで、男たちの肋骨が軋み、呻き声を上げて倒れていく。
虎伯の周囲だけ、まるで台風の目のようにヤクザたちが近づけなくなっていた。
その凄まじい立ち回りを、龍也はセダンの横に寄りかかり、ジッポーライターで煙草に火を点けながら無表情に眺めていた。
【観察】
「……相変わらず、無駄な筋肉だ」
龍也は紫煙を吐き出し、傍らに立っていた鮫島に短く命じた。
「重機を止めさせるな。人間ごと潰せ」
「は、はいッ!」
鮫島の合図で、油圧ショベルの運転手がアクセルを踏み込んだ。
重機が、労働者たちが築いた木材と鉄骨のバリケードに激突する。
メキメキメキッ!!
轟音とともに、バリケードが紙屑のように粉砕されていく。
そのすぐ裏には、逃げ遅れた初老の労働者が尻餅をついていた。
「危ねえッ!!」
虎伯がヤクザを撥ね退け、重機に向かって全力で走る。
振り下ろされる巨大な鉄のバケット。
虎伯は、初老の労働者に覆い被さるように飛び込み、その背中で鉄のバケットを受け止めようとした。
ガァンッ!!
【軋む肉体】
「がはッ……!!」
虎伯の口から、大量の空気が押し出される。
数トンの油圧の力が、虎伯の分厚い背中の筋肉を容赦なく押し潰そうとする。
だが、虎伯は両手と両足でコンクリートを踏みしめ、その信じられない筋力で、バケットの降下を【肉体のみ】でギリギリで食い止めていた。
「う、おおおおおおおおおッッ!!」
虎伯の全身の血管が浮き上がり、目から血走った涙がこぼれる。
周囲のヤクザたちですら、その人間の限界を超えた光景に息を呑み、動きを止めた。
重機の運転手が焦り、さらにレバーを引く。
虎伯の膝が、メキリと嫌な音を立てた。
「虎伯ッ!!」
源さんが大木槌を振りかぶり、重機のキャビン(運転席)のガラスに向かって叩きつけた。
ガシャンッ!
ガラスが割れ、運転手が悲鳴を上げてレバーから手を離す。
その隙に、他の労働者たちが虎伯と初老の男を引きずり出した。
虎伯は地面に転がり、荒い息を吐きながら膝を押さえた。
骨は折れていないが、強烈なダメージで立ち上がれない。
現場の空気が、虎伯の異常な抵抗によって一瞬だけ止まった。
ヤクザたちも、これ以上踏み込めば何人死人が出るか分からないという恐怖を感じ始めていた。
その、奇妙な静寂を切り裂いたのは。
パンッ。
【乾いた破裂音】だった。
誰もが、その音がどこから鳴ったのか一瞬理解できなかった。
だが、源さんの隣に立っていた若い労働者が、「あ……」と短い声を漏らし、自分の太ももを押さえて崩れ落ちた。
指の隙間から、どくどくと黒い血が溢れ出している。
「ヒィッ……! 撃たれたッ!!」
誰かの悲鳴が上がった。
全員の視線が、音のした方向へ向く。
三十メートル離れたセダンの前。
大澤龍也が、右手にロシア製のトカレフを構えていた。
銃口からは、一筋の白い硝煙が立ち上っている。
龍也の顔には、やはり何の感情もない。
ただの「事務手続き」として、邪魔な人間の脚を撃ち抜いただけだ。
「……次は、腹を撃つ」
龍也の平坦な声が、凍りついた埠頭に響き渡った。
「その次は、頭だ。……お前らの安い命と、この薄汚いバラック。どっちが大事か、一秒で決めろ」
【絶対的な支配】
労働者たちが、持っていた武器を次々と地面に落とした。
ヤクザの暴力には耐えられても、本物の【殺意と銃弾】の前では、一般人の心は一瞬で折れる。
虎伯は、地面を這いずりながら、遠くに立つ龍也を睨みつけた。
「……龍也ァァァッ!!」
獣のような咆哮。
だが、その声は空しく海風に溶けていくだけだ。
源さんが、撃たれた若者の止血をしながら、深く、重い溜息をついた。
「……やめろ、虎伯。俺たちの負けだ」
源さんが、ゆっくりと両手を挙げた。
それを見た龍也は、無造作に銃をコートの懐にしまい、再び鮫島に顎でしゃくった。
重機のエンジンが、再び轟音を上げる。
今度は、誰もそれを止める者はいなかった。
メキメキ、ガシャァァァンッ!!
労働者たちが三十年間守り続けてきた組合事務所が、巨大な鉄の爪によって、無惨にも叩き潰されていく。
長年染み付いた汗の匂いも、生活の痕跡も、すべてがただの瓦礫へと変わっていく。
虎伯は、膝をついたまま、その光景をただ見つめることしかできなかった。
自分の圧倒的な暴力が、龍也の持つ【冷徹なシステム】と【銃】の前では、どれほど無力であるか。
それを、骨の髄まで思い知らされた瞬間だった。
龍也は、完全に更地になりつつある埠頭を一瞥し、セダンのドアを開けた。
車に乗り込む直前、龍也は一度だけ、遠くで膝をついている虎伯の方を見た。
サングラスの奥の瞳が何を思っていたのか、虎伯には読み取ることができない。
車が走り去り、後にはヤクザたちと、破壊された残骸、そして血の匂いだけが残された。
【虚無】
2002年、秋の気配が近づく朝。
白岩虎伯は、瓦礫の山となった埠頭で、自分の無力さに涙すら流せず、ただ静かに血まみれの拳を握りしめていた。
表の世界のルールでは、あの男には絶対に勝てない。
もし龍也を止めるなら、自分もあの【冷たい地獄】へと降りていくしかないのだと。
虎伯の心の中で、何かが決定的に壊れ、そして新しく冷たい炎が灯り始めていた。
――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。
その問いは、もはや無意味だった。
間違えたのは過去ではなく、彼らが生きているこの世界そのものだったからだ。
【第11話:修羅の目覚め、狂犬再び】へ続く。
【新規登場人物(背景の影)紹介】
【氷室】
所属: 広域指定暴力団・相模会 本部付 ヒットマン(掃除屋)
人物像: 今回の立ち退き現場の遠方、黒いバンの車内から、龍也の「仕事ぶり」を無言で監視していた男。黒田の直属の部下であり、感情を完全に排除した殺しのプロフェッショナル。
役割: 龍也がもし労働者(特に虎伯)に対して少しでも情を見せ、仕事に支障をきたした場合は、龍也ごと全員を「処理」するために配置されていた。今後、裏社会で龍也の前に立ち塞がる、本物の死神としての役割を担う。




