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龍虎の境界 ―第11話:修羅の目覚め、狂犬再び―

2002年、秋。

冷たい雨が、横浜の街を灰色のグラデーションに染め上げていた。

関内にある、看板のない雑居ビルの地下。

消毒液と、古びた畳の匂いが混ざり合う、モグリの闇医者の待合室。

白岩虎伯は、パイプ椅子に深く腰掛け、自分の巨大な両手をじっと見つめていた。

【沈黙】

奥の処置室からは、鈍い呻き声と、金属製の医療器具がカチャカチャと鳴る音が漏れ聞こえてくる。

あの朝、第十七埠頭で大澤龍也に足を撃ち抜かれた若い労働者の弾摘出手術が、麻酔も不十分なまま行われていた。

表の病院へ行けば、警察が介入する。

そうすれば、不法占拠の罪で労働者たちの方が逮捕され、相模会のシナリオ通りに事が進んでしまう。それを避けるための、苦肉の策だった。

処置室のドアが開き、血に染まった白衣を着た闇医者と、源さんが出てきた。

源さんは、茶封筒に入った現金を医者に無言で手渡し、深く頭を下げた。

虎伯は立ち上がり、源さんの顔を見る。

「……命に別状はない。脚の神経も、なんとか繋がったそうだ」

源さんが、ポケットから煙草を取り出しながら言った。

その手は、五年前から見せていた力強さを失い、微かに震えていた。

虎伯は、待合室の隅に置いてあった自分の灰色の作業着と、泥だらけのヘルメットを見つめた。

「……源さん。俺、現場を辞めるよ」

【決別】

虎伯の言葉は、地下室の冷たい空気に重く沈み込んだ。

源さんは煙草に火を点け、紫煙を細く吐き出した。

驚いた様子はなかった。あの朝、埠頭で虎伯の心が完全に壊れる音を、源さんはすぐそばで聞いていたからだ。

「……お前が現場を辞めて、どこに行くつもりか。俺には分かっているぞ、虎伯」

「あのままじゃ、誰も守れねえ。俺の拳がいくらデカくても、あいつの持ってる『鉄』と『組織』の前じゃ、ただの案山子かかしだ」

虎伯は、自分の両の拳をギリリと握りしめた。

関節が白く変色し、ミシミシと骨が軋む音が鳴る。

「あいつのいる地獄に降りて、あいつのルールで叩き潰すしかねえんだ」

源さんは、静かに虎伯の前に歩み寄り、その分厚い胸板にポンと手を当てた。

「……人を守るために修羅になるか。それもまた、男の哀しいさがだな」

源さんは、虎伯から手を離し、背を向けた。

「行け、虎伯。……だが、これだけは覚えておけ。闇の中に長く居すぎると、自分が元々どんな光を見ていたのか、分からなくなる。お前が『ただの人殺し』になった時は、俺がお前を殺しに行く」

虎伯は深く頭を下げ、ヘルメットを残したまま、冷たい雨の降る地上へと歩き出した。

【狂犬の解放】

15歳の夏から五年。

土の匂いにまみれ、人間としての温もりを取り戻しかけていた白岩虎伯は、自らの意思でその鎖を引きちぎった。

彼の中で眠っていた「暴力の獣」が、どす黒い怒りとともに完全に目を覚ました。

同じ日の夜。

横浜の高級歓楽街、関内の奥深く。

一見の客は決して入れない、会員制の高級料亭の奥座敷。

【裏の宴】

大澤龍也は、上座に座る初老の男に、静かに冷酒を注いでいた。

男は、広域指定暴力団・相模会の直参幹部、黒田だった。

仕立ての良い着物を着流し、顔には深い皺が刻まれているが、その眼光は蛇のように冷たく、そして貪欲だ。

龍也の隣には、彼をこの世界に引きずり込んだ女、桑原翼が艶やかな着物姿で座っている。

「……見事だったな、大澤。たった一日で、あの厄介な組合を完全に黙らせるとはな」

黒田が、注がれた冷酒を一口で飲み干し、満足そうに笑った。

「いえ。俺はただ、彼らに『計算式』を教えただけです。命の価値と、土地の価値。どちらが重いかという」

龍也は一切の表情を崩さず、淡々と答える。

「ハハハッ! 違いねえ。……で、あの金髪のデカいガキ。あれはなんだ? 報告じゃあ、一人でうちの若い衆を五、六人病院送りにしたそうだが」

黒田の目が、一瞬だけ鋭く細められた。

龍也の心臓が、微かに冷たいリズムを刻む。

「……ただの日雇い労働者です。頭が悪いので、暴走したのでしょう。撃たれた仲間の血を見て、逃げ出しました」

龍也は、虎伯との過去を完全に伏せたまま、グラスの氷をカランと鳴らした。

「そうか。まあいい、ゴミの素性などどうでもいい。……お前には、次の『絵』を描いてもらう」

黒田が、扇子をパチンと鳴らし、部屋の隅に控えていた男に目配せをした。

【死神】

その男は、部屋の暗がりに完全に同化していた。

黒いスーツ。無精髭。そして、一切の感情が死滅した爬虫類のような目。

相模会本部付のヒットマン、氷室ひむろだった。

氷室は無言のまま、一枚の写真をテーブルの上に滑らせた。

写真に写っていたのは、横浜の隣町を縄張りにする別のヤクザ組織の組長だった。

「……こいつのシノギを、全部うちで頂く。大澤、お前の得意な『経済ヤクザ』のやり方で、こいつの組の資金源を完全に絶て。……息の根を止めるのは、氷室がやる」

黒田の命令は、もはや後戻りのできない完全な【極道同士の抗争】への参加を意味していた。

「承知しました」

龍也は短く答え、盃を干した。

料亭を出て、冷たい雨の降る路地を歩きながら、翼が龍也の腕に絡みついてきた。

「……大澤くん。あんた、黒田さんに嘘をついたわね」

翼の甘い香水が、雨の匂いに混じる。

「あの金髪の男。……五年前に、あんたが捨てた『相棒』でしょ?」

龍也は立ち止まり、サングラス越しに翼を見下ろした。

「……死んだ人間だ。俺の仕事には関係ない」

「そうかしら。あの男の目、あんたを殺す気で満ちていたわよ。……野良犬は、早く処分しないと、いつか寝首を掻かれるわよ」

龍也は答えず、迎えに来ていた黒いセダンに乗り込んだ。

後部座席で、彼は無意識のうちに、懐のトカレフの冷たい感触を確かめていた。

【蹂躙の始まり】

深夜二時。

横浜の裏通りにある、龍虎会のフロント企業(実態は違法な闇金)の事務所。

鮫島は、プレハブ小屋のような粗末な事務所の中で、札束の勘定をしていた。

あの埠頭での一件以来、龍也からの評価が上がり、機嫌良く鼻歌など歌っている。

周囲には、龍虎会の末端の不良たちが数人、酒を飲みながらトランプに興じていた。

その時だった。

【破壊音】

ドゴォォォォンッ!!

鉄製の重いドアが、凄まじい衝撃音とともに蝶番ごと吹き飛び、事務所の中央にあるテーブルに激突した。

「な、なんだッ!?」

鮫島が札束を落とし、悲鳴を上げる。

トランプをしていた不良たちが、慌ててナイフや鉄パイプを手に立ち上がる。

吹き飛んだドアの向こう。

雨の降る暗闇の中から、一人の巨漢がゆっくりと姿を現した。

ずぶ濡れの黒い革ジャン。

丸刈りの金髪。

そして、眼球に血走った赤い光を宿した、白岩虎伯だった。

【獣の帰還】

「……お、お前……虎伯……! てめえ、ここが誰のシマか分かって……」

不良の一人が、ナイフを構えて虎伯に飛びかかろうとした。

だが、虎伯は一言も発さなかった。

ただ、圧倒的な速度と質量で、その不良の顔面を右の拳で「撃ち抜いた」。

【破砕】

メシャッ! という、スイカをハンマーで叩き割ったような音が響く。

不良は完全に意識を飛ばし、三メートルほど後方へ吹き飛んで壁に激突した。

「ヒィッ……! 殺せ! 殺せェ!」

残りの三人が一斉に襲いかかる。

だが、今の虎伯は「現場の土方」ではない。

リミッターを完全に解除した、純度百パーセントの【殺戮兵器】だった。

振り下ろされる鉄パイプを左手で掴み取り、そのまま相手の腕ごと強引に捻り折る。

「あぎゃあああッ!」

悲鳴を上げる男の顔面を、空いた右手で容赦なく掴み、事務所の薄汚れた床に思い切り叩きつけた。

ドスンッ! という振動が床を揺らす。

残った一人が、恐怖で逃げ出そうと背を向けた。

虎伯はその背中を蹴り飛ばし、倒れた男の足首を安全靴で踏み砕いた。

わずか二十秒。

事務所の中は、血の海と、断末魔の呻き声だけが響く地獄に変わっていた。

鮫島は、壁際まで後ずさりし、震える手で携帯電話を取り出そうとしていた。

「りゅ、龍也さんに……!」

虎伯はゆっくりと歩み寄り、鮫島の顔面を蹴り上げた。

【恐怖の刻印】

「がはッ……!」

鮫島の鼻骨が砕け、携帯電話が血まみれになって床に転がる。

虎伯は鮫島の胸ぐらを掴み、自分の顔のすぐ近くまで引き上げた。

虎伯の目から放たれる殺気は、鮫島が今まで見てきたどんな極道よりも、深く、濃く、そして狂っていた。

「さ、鮫島……。お前、まだ龍也の犬やってんだな」

「こ、虎伯……悪かった、頼む、殺さないでくれ……!」

鮫島が涙と鼻水を流しながら命乞いをする。

虎伯は、鮫島を殴らなかった。

代わりに、鮫島の耳元で、地獄の底から響くような声で囁いた。

「龍也に伝えろ。……『表の人間』には手を出すな。もし次にあいつが俺の周りの人間を傷つけたら……」

虎伯は鮫島を床に投げ捨て、血まみれの安全靴で、鮫島の「無事な方の左膝」を思い切り踏みつけた。

【宣告】

「ぎゃああああああああああッッ!!」

「……あいつの持ってる『鉄(銃)』ごと、俺がこの手でぶっ壊しに行くってな」

虎伯は、落ちていた鮫島の携帯電話を踏み砕き、雨の降る外へと姿を消した。

残された事務所には、鮫島の絶叫と、散乱した札束だけが残された。

2002年、秋。

表の世界の優しさを捨て、再び拳を血で染めることを選んだ白岩虎伯。

本物の極道の世界に足を踏み入れ、修羅の道を歩み始めた大澤龍也。

二つの狂気が、横浜の暗闇の中で、いよいよ直接激突しようとしていた。

――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。

その悲壮な問いかけが現実の血となって流れるまで、残された時間は少なかった。

【第12話:黒い包囲網、血の洗礼】へ続く。

【新規(背景)情報】

【龍虎会の現在】

組織形態: 五年前の「中学生の不良集団」から完全に脱却。大澤龍也をトップとし、鮫島が実働部隊を統括する非合法組織(半グレ集団の走り)となっている。

シノギ(資金源): 桑原翼の指示の下、高金利の闇金、債務者の戸籍売買、違法カジノの運営、そして相模会の下請けとしての「地上げ」や「脅迫」など、暴力と情報を使った経済犯罪を主軸としている。

虎伯の襲撃の影響: 今回の虎伯の襲撃により、龍也の足元である「龍虎会」の末端が恐怖に陥る。これは、虎伯が単なる一個の暴力から、龍也の【システム】を直接破壊するテロリストへと変貌したことを意味する。

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