龍虎の境界 ―第12話:黒い包囲網、血の洗礼―
2002年、秋。
横浜の空は、底の抜けたように冷たい雨を降らせ続けていた。
アスファルトに打ち付けられる雨音が、街のすべての雑音を掻き消していく。
みなとみらいの高級タワーマンションの一室。
大澤龍也は、窓ガラスを流れる雨粒を、無機質な目で見つめていた。
部屋の照明は落とされ、間接照明の青白い光だけが、龍也の横顔を彫刻のように浮かび上がらせている。
【報告】
リビングの床には、顔面を包帯でぐるぐる巻きにされ、松葉杖をついた鮫島が土下座をしていた。
「……申し訳ありません、龍也さん。事務所の現金、約五百万円が持っていかれました。……それに、若い衆が四人、骨を折られて病院送りです」
鮫島の声は、恐怖と痛みのせいでひどく掠れていた。
龍也は窓から視線を外さず、手元のグラスに入ったバーボンをゆっくりと揺らした。
氷が溶け、カラン、と寂れた音を立てる。
「……やったのは、一人か」
「は、はい。……白岩の、虎伯です。間違いありません。あいつ、完全に狂ってました……」
ソファでワインを飲んでいた桑原翼が、ふっと冷たい鼻で笑った。
「五百万円の損害に、使い走りの負傷。……大澤くん、あなたの『システム』が、たった一匹の野良犬にコケにされたわね」
翼の言葉には、龍也を試すような棘が含まれていた。
龍也はグラスをテーブルに置き、純銀のジッポーで煙草に火を点けた。
カチッ。
青い炎が、一瞬だけ龍也のサングラスの奥の瞳を照らす。
「……鮫島。お前はもう下がれ。怪我が治るまで裏方に回れ」
「りゅ、龍也さん! 俺にやらせてください! ハジキを貸してくれれば、あんな筋肉馬鹿……!」
【冷徹】
「お前じゃ殺される」
龍也の絶対零度の声に、鮫島はビクッと体を震わせ、それ以上何も言えずに部屋を出て行った。
静寂が戻った部屋で、不意に、テーブルの上に置かれた龍也の携帯電話が震えた。
液晶画面には、『黒田』の文字。
龍也は煙草を灰皿に置き、電話に出た。
「……大澤です」
『大澤。お前のところのシノギが、デカいガキに荒らされたそうだな』
電話越しの黒田の声は、普段の傲慢な響きとは違う、不気味なほどの静けさを持っていた。
情報が回るのが早すぎる。相模会の情報網は、龍虎会の末端まで完全に掌握している証拠だった。
「……俺の不始末です。すぐに対処します」
『いや、いい。お前は隣町の組の経済封鎖に集中しろ。……あのガキは、埠頭での立ち退きに最後まで逆らっていた奴だろ。目障りだ』
龍也の心臓が、微かに、ほんの微かにだが、冷たいリズムを崩した。
『掃除屋(氷室)を向かわせた。……お前は手を出すなよ、大澤』
ツーツー、という無機質な電子音が響く。
龍也は携帯電話を耳から離し、暗い画面を見つめた。
氷室。
あの、感情を持たない相模会のヒットマン。
素手で殴り合うことしか知らない虎伯が、あの本物の「死神」の前に立てば、数秒で肉塊に変わる。
「……黒田さん、なんて?」
翼が、龍也の背中から腕を回してきた。
龍也は翼の腕を静かに解き、ソファにあった黒いチェスターコートを羽織った。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「大澤くん。……裏切ったら、あんたも消されるわよ」
翼の警告を背に受けながら、龍也は振り返ることなく、雨の降る夜の街へと消えていった。
【死神の足音】
同じ頃。
横浜港の片隅にある、放置された古い倉庫。
虎伯は、薄暗い裸電球の下で、自分の両拳に白いバンテージをきつく巻きつけていた。
シュッ、シュッ。
布が擦れる音だけが響く。
昨夜、龍也の事務所を潰した。次は、龍也の息のかかった違法カジノを潰す。
あいつの周りにあるものをすべて破壊し、龍也を自分の目の前まで引きずり出す。
「……虎伯」
倉庫の入り口から、源さんが入ってきた。
雨に濡れた作業着姿で、その手にはサバイバルナイフが握られている。
「源さん……。来るなって言っただろ。ここはもう、俺の墓場になるかもしれないんだ」
虎伯がバンテージを巻き終え、立ち上がる。
「バカ野郎。お前一人を死なせるわけにいかねえだろうが」
源さんがナイフを懐にしまい、虎伯の前に立った。
「虎伯、よく聞け。……この辺りに、怪しい黒塗りのバンが何台か停まってる。普通のチンピラじゃねえ。……本職の『殺し屋』の気配だ」
源さんの長年の経験が、強烈な死の匂いを嗅ぎ取っていた。
その時だった。
プツンッ。
倉庫の裸電球が、突然消えた。
【暗闇】
完全な闇。
雨音だけが、倉庫のトタン屋根を激しく叩き続けている。
「……源さん、後ろだ!」
虎伯の野生の勘が、背後からの微かな空気の揺らぎを捉えた。
ヒュッ。
空気を切り裂く音。
虎伯が源さんを突き飛ばした瞬間、先ほどまで源さんが立っていた場所の空間を、鋭利な刃物が薙ぎ払った。
闇の中から、音もなく黒いスーツの男たちが現れる。
手には、鈍く光るマチェーテ(山刀)や、サプレッサー(消音器)のついた拳銃。
「……殺せ」
暗闇の奥から、氷室の感情のない声が響いた。
【血の洗礼】
五人のヒットマンが、一斉に虎伯に襲いかかった。
虎伯は雄叫びを上げ、真っ暗闇の中で迫り来る刃を紙一重でかわし、反撃の拳を叩き込む。
「おおおおおッ!」
ゴッ! という重い音がして、一人の男が吹き飛ぶ。
だが、相手は街の不良ではない。
倒れた仲間を無視して、別の男が虎伯の太ももにマチェーテを振り下ろした。
【裂傷】
「ぐっ……!」
虎伯の分厚い筋肉が切り裂かれ、熱い血が噴き出す。
痛みに動きが鈍った瞬間、背後から別の男が虎伯の首を狙って刃を振り上げた。
「虎伯ッ!」
源さんが飛び込み、その男の腕をサバイバルナイフで切り裂く。
「源さん! 手を出すな!」
「ガタガタ言うな! 背中は俺が守る!」
源さんと虎伯は背中合わせになり、暗闇の中で黒い影たちと死闘を繰り広げた。
虎伯の圧倒的なパワーと、源さんの老練な技術。
次々とヒットマンたちを床に沈めていく。
「ハァ……ハァ……」
虎伯の全身から、血と汗が滝のように流れ落ちていた。
なんとか五人を倒した。
だが。
パンッ。
雨音に紛れるような、乾いた小さな破裂音。
「……あ」
源さんの口から、短い空気が漏れた。
虎伯が振り返ると、源さんの胸の真ん中に、小さな赤い穴が開いていた。
【凶弾】
「……源、さん……?」
源さんの体が、ゆっくりと、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「源さんッ!!」
虎伯が源さんの体を抱きとめる。
大量の血が、虎伯の手を真っ赤に染め上げていく。
倉庫の奥から、静かな足音とともに、氷室が姿を現した。
手には、サプレッサーのついた黒い拳銃。
その銃口からは、薄く煙が立ち上がっている。
「……無駄な足掻きだ。お前のような野良犬が、組織の力に勝てるわけがない」
氷室が、冷たく言い放つ。
「てめえええええええええッッ!!」
虎伯の理性が、完全に吹き飛んだ。
源さんの体を床に置き、虎伯は弾丸のような速度で氷室に向かって突進した。
銃口が、虎伯の頭に向けられる。
パンッ。
虎伯は首を捻って致命傷を避けたが、弾丸が彼の左肩を貫通した。
「があッ!」
【狂鬼】
それでも虎伯は止まらない。
痛みを完全に無視し、氷室の懐に飛び込んだ。
「死ねェッ!」
虎伯の右ストレートが、氷室の顔面を捉えるかに見えた。
だが、氷室の動きは、虎伯の予想を遥かに超えていた。
氷室はわずかに後退してその拳をかわすと、持っていた拳銃のグリップで、虎伯の側頭部を思い切り殴りつけた。
ガァンッ!
脳髄が揺れ、虎伯の視界が真っ白になる。
膝から崩れ落ちそうになる虎伯の腹部に、氷室の冷酷な前蹴りが突き刺さった。
「ごはッ……」
虎伯は床に倒れ込み、大量の血と胃液を吐き出した。
筋肉の鎧も、本物の殺し屋の技術と銃の前には、ただの的でしかなかった。
氷室は倒れた虎伯を見下ろし、銃の撃鉄を起こした。
「……終わりだ」
銃口が、虎伯の眉間にピタリと合わせられる。
虎伯は、薄れゆく意識の中で、血まみれの源さんの姿を見た。
(……俺ら、何間違えたんだろうな……龍也)
虎伯が目を閉じた、その瞬間。
【介入】
「……待て、氷室」
倉庫の入り口から、冷たく、よく響く声が聞こえた。
氷室が視線を動かさずに、銃口を虎伯に向けたまま問い返す。
「……大澤か。黒田さんから、お前は手を出すなと命令が出ているはずだが」
黒いチェスターコートを濡らした龍也が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
サングラスの奥の瞳は、足元に転がる血まみれの虎伯を見ても、微塵も揺らいでいない。
「そいつをここで殺せば、死体が二つ残る。……明日の朝には港湾局の視察が入るんだ。現場に警察が入れば、再開発のスケジュールが数ヶ月遅れる」
龍也の言葉は、完璧なまでに【ビジネス】の理論だった。
「死体は俺の若い衆に処理させる。……だから、殺すな。生きている方が、偽装工作に使える」
氷室は、龍也の目を数秒間、じっと見つめた。
そこに「友を助けたい」という情が少しでも見えれば、氷室は迷わず二人とも射殺していただろう。
だが、龍也の目には、利益と損失の計算しか浮かんでいなかった。
「……チッ」
氷室は銃を下ろし、安全装置をかけた。
「いいだろう。後始末はお前に任せる。……だが、こいつが再び俺たちの前に現れた時は、お前の責任だぞ、大澤」
氷室は、倒れた部下たちには目もくれず、闇の中へと消えていった。
【氷の決別】
倉庫に、雨音だけが戻ってきた。
龍也は、床に倒れて荒い息を吐く虎伯を、無言で見下ろした。
虎伯が、血走った目で龍也を睨み上げる。
「……りゅ、う……や……。俺を、哀れんでるのか……」
龍也はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、冷たく言い放った。
「勘違いするな。お前を殺すと、俺のシノギの邪魔になるから生かしただけだ」
龍也は、持っていたジッポーライターを取り出し、虎伯の顔の横に無造作に放り投げた。
カラン、と銀色のライターが血の海に転がる。
「……その老人は、すぐに闇医者に運べばまだ助かるかもしれない」
龍也は背を向けた。
「二度と俺の前に現れるな、虎伯。……次はないぞ」
革靴の足音が、遠ざかっていく。
虎伯は、激痛に耐えながら、血まみれの手で龍也が落としていったジッポーライターを握りしめた。
1996年の夏。
あの市営住宅の屋上で、二人の誓いの炎を灯したライター。
だが、今のその金属は、まるで氷のように冷たかった。
「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
虎伯の絶望の咆哮が、雨の横浜港に空しく響き渡った。
2002年、秋。
絶対的な力の差を見せつけられ、地を這うことになった虎伯。
自らの手で過去を完全に切り捨て、後戻りのできない修羅の道を歩み続ける龍也。
二人の男の運命は、いよいよ最も暗く、救いのない最終章へと向かって加速していく。




