龍虎の境界 ―第13話:傷跡の咆哮、修羅の産声―
2002年、初冬。
消毒液の匂いが、肺の奥にまでこびりつくような空間だった。
横浜の地下深くにある、モグリの闇医院。
窓のない病室のベッドで、源さんは静かに管を繋がれていた。
心電図の規則正しい電子音だけが、彼がまだ生きてこの世に留まっていることを辛うじて証明している。
白岩虎伯は、ベッドの脇の丸椅子に座り、身動き一つせずにその寝顔を見つめていた。
虎伯自身の左肩には分厚い包帯が巻かれ、氷室に殴られた側頭部は赤黒く腫れ上がっている。
【宣告】
「……弾は心臓を逸れていたが、肺と脊髄を激しく傷つけている」
背後で、血走った目をした闇医者が、カルテを見ながらボソリと言った。
「命が助かっただけでも奇跡だ。……だが、意識が戻る保証はないし、仮に目覚めたとしても、二度と歩くことはできないだろうな」
虎伯は何も答えない。
ただ、自分の巨大な両手を見つめていた。
どれだけ鍛え上げても。
どれだけ他人の骨を砕く力があっても。
一番守りたかった人間を、銃弾の一発から守ることもできなかった、無力な肉の塊。
虎伯は、ポケットから銀色のジッポーライターを取り出した。
あの夜、大澤龍也が血の海に放り投げていったものだ。
【冷たい炎】
親指でホイールを回す。
カチッ。
青い炎が、薄暗い病室を照らす。
かつて、市営住宅の屋上で二人の夢を照らした炎。
だが今、虎伯がその炎に見ているのは、希望などではない。
底なしの憎悪と、自分自身の過去を焼き尽くすための【業火】だった。
虎伯は、ライターの蓋を閉じ、立ち上がった。
「……先生。源さんのこと、頼む。費用はいくらでも払う」
「おい、坊主。お前、その体でどこへ行く気だ。まだ傷が塞がってないぞ」
医者の制止を背中で聞き流し、虎伯は灰色の作業着を羽織って病室を出た。
地下から地上へ続く階段を上る。
外は、みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。
虎伯は、雨を避けることもせず、暗い横浜の街へと歩き出す。
(……龍也。お前が俺を生かしたこと、後悔させてやる)
表の世界で生きるためのルールは、もう捨てた。
これからは、あの男のいる地獄で、あの男のルールで戦う。
【裏の階段】
同じ頃。
関内の高級クラブのVIPルーム。
重厚な扉の向こうでは、相模会の幹部である黒田が、高級な葉巻をくゆらせながら上機嫌に笑っていた。
「ハハハッ! 見事だ、大澤。あの川崎の組、たった一ヶ月で完全に干上がったそうじゃないか」
黒田の対面に座る大澤龍也は、グラスに入ったウイスキーを静かに傾けていた。
龍也は、敵対する組のフロント企業を徹底的に調べ上げ、銀行への圧力、手形の不渡り工作、そして下請け業者への脅迫を組み合わせ、完全に資金源を絶ったのだ。
暴力を使わず、書類と電話だけで一つの組織を壊滅状態に追い込んだ。
「……彼らは、金の流れが古すぎました。新しい口座を三つ潰せば、あとは自滅する計算でしたから」
龍也の平坦な声に、黒田は満足そうに頷く。
「お前は本当に、ヤクザにしておくには惜しい頭をしている。……大澤、お前に横浜の『南地区』のシノギをすべて任せる」
【昇格】
それは、龍也が名実ともに相模会の直参クラスと同等の権力を手に入れた瞬間だった。
20歳という若さでは、異例中の異例である。
だが、龍也の表情には一切の喜びが浮かばない。
ただ「承知しました」と短く答え、ウイスキーを喉に流し込むだけだ。
部屋の隅では、ヒットマンの氷室が、無言でそのやり取りを聞いていた。
氷室の蛇のような目が、龍也の背中をねっとりと舐め回す。
(……このガキは、いつか必ず組の脅威になる)
氷室の直感が、そう告げていた。
クラブを出て、ネオンが水たまりに反射する裏通りを歩く。
隣には、桑原翼が寄り添っていた。
「おめでとう、大澤くん。これで南地区は私たちのものね」
翼が、龍也のチェスターコートの腕に自分の細い腕を絡ませる。
龍也は立ち止まり、ポケットから煙草を取り出した。
そして、火を点けようとして、指先が止まる。
【欠落】
いつもの銀色のジッポーがない。
あの夜、虎伯の横に捨ててきたからだ。
龍也は舌打ちをし、近くのコンビニで買った百円の使い捨てライターを取り出した。
シュボッ。
安いガスの匂いとともに、頼りない火が点く。
「……どうしたの? いつものライターは?」
翼が不思議そうに尋ねる。
「……落とした。もう必要ないものだ」
龍也は深く煙を吸い込み、冷たいみぞれの降る夜空へ吐き出した。
その瞳は、どこまでも深く、そして空虚だった。
【狂犬の狩り】
それから、二週間後。
横浜の南地区。
雑居ビルの三階にある、相模会の息がかかった違法カジノ。
深夜、数十人の客がルーレットやバカラに熱中し、タバコの煙と欲望の匂いが充満していた。
店の奥には、相模会の若い衆が数人、鋭い目つきで監視に立っている。
【襲撃】
ドゴォォォォンッ!!
突然、重厚な防音扉が、外からの凄まじい衝撃によって蝶番ごと吹き飛んだ。
「な、なんだッ!?」
客たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
もうもうと立ち込める粉塵の中から、一人の巨漢が姿を現した。
黒い革ジャンに身を包み、右手に血まみれの太い鉄パイプを引きずっている。
白岩虎伯だった。
「……相模会の犬は、どいつだ」
虎伯の低く、地獄の底から響くような声が、カジノの騒騒音を一瞬で凍りつかせた。
監視に立っていた若い衆が、懐からサバイバルナイフや警棒を取り出し、虎伯を取り囲む。
「テメェ、ここをどこだと思って……ッ!」
一人の男がナイフを振りかざして飛びかかった。
だが、虎伯は避けることすらしない。
向かってくる男の顔面に、持っていた鉄パイプを、野球のフルスイングのような速度で叩き込んだ。
【粉砕】
メシャァッ!!
男の顎から上が完全に砕け散り、血しぶきが天井まで吹き上がる。
悲鳴を上げる間もなく、男は痙攣しながら床に沈んだ。
「ヒィッ……! 化け物だッ! 殺せ!」
残りの三人が一斉に襲いかかる。
虎伯の目に、もはや「手加減」という文字はなかった。
向かってくる男の膝を安全靴で踏み砕き、倒れ込んだところを後頭部から鉄パイプで殴りつける。
さらに別の男の腕を掴み、関節を逆方向に完全にへし折った。
「ぎゃあああああああッ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
わずか一分後。
カジノの店内は、血の海と、相模会の組員たちの断末魔だけが響く空間へと変わっていた。
虎伯は、荒い息を吐きながら、店の奥にある金庫室へと向かった。
金庫の前に震えながら座り込んでいる、カジノの支配人の男。
虎伯はその胸ぐらを掴み上げ、壁に叩きつけた。
「開けろ」
「ひ、ひぃッ! 命だけは……!」
支配人が震える手で金庫のダイヤルを回す。
重い扉が開くと、中には今夜の売上である数千万の現金が積まれていた。
虎伯は、その中からボストンバッグ一つ分、およそ二千万円を無造作に詰め込んだ。
そして、金庫の奥に隠されていたものに目を留める。
【修羅の道具】
黒い布に包まれた、三丁の拳銃と、予備の弾倉。
虎伯は、その拳銃を一つ手に取った。
鉄の冷たい感触が、掌から脳へと伝わる。
(……俺の拳じゃ、龍也には届かない)
虎伯は、躊躇することなくその拳銃を革ジャンの内ポケットに滑り込ませた。
「おい」
虎伯は、壁際で震えている支配人を見下ろした。
「この店のケツ持ちは、大澤龍也だな?」
「は、はい……! 大澤さんが南地区を仕切るようになってから、うちも……」
「龍也に伝えろ」
虎伯は、支配人の顔のすぐ横の壁を、鉄パイプで思い切り殴りつけた。
ガァンッ! と壁に大穴が開き、支配人が失禁する。
「……白岩虎伯が、お前のシノギを全部潰しに行くってな。逃げるなら今のうちだと言っておけ」
虎伯はボストンバッグを肩に担ぎ、血まみれの現場を後にした。
【宣戦布告】
翌朝。
この襲撃のニュースは、相模会の内部に激震を走らせた。
龍也の管轄である南地区が、たった一人の男によって壊滅的な被害を受けたのだ。
奪われた現金。へし折られた組員たちの骨。
龍也の「完璧なシステム」に、虎伯という【制御不能の暴力】が、鋭い牙を突き立てた瞬間だった。
龍也と虎伯。
かつて背中を預け合った二人が、互いの命と矜持を賭けて、横浜の闇の中で血みどろの殺し合いを始める。
――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。
その問いに対する答えは、放たれた銃弾の先にしか存在しない。




