龍虎の境界 ―第14話:龍の焦燥、虎の追跡―
2002年、初冬。
血と、焦げた硝煙と、吐瀉物の匂いが混ざり合った、凄惨な空間だった。
横浜・南地区。
昨夜、白岩虎伯によって単独で壊滅させられた相模会系の違法カジノ。
警察の介入を防ぐため、シャッターは固く閉ざされ、中はすでに「身内」による清掃作業が始まっていた。
大澤龍也は、ガラスの破片が散乱する床を、革靴で静かに踏みしめながら歩いていた。
ジャリッ、ジャリッ。
無機質な足音だけが、不気味なほど静まり返った店内に響く。
龍也の視線の先には、原型を留めないほどに破壊されたルーレット台と、血の海に沈んだまま動かない数人の組員たちの姿があった。
壁には、鉄パイプで殴りつけられた際に開いた巨大な穴が、まるで猛獣の爪痕のように生々しく残っている。
【蹂躙の痕跡】
「……ひどい有様ね。まるで、ダンプカーが店内に突っ込んだみたい」
背後から、毛皮のコートを羽織った桑原翼が、ハンカチで鼻を押さえながら近づいてきた。
彼女のヒールが、血溜まりを避けて不規則なリズムを刻む。
龍也は何も答えない。
ただ、破壊された金庫の前にしゃがみ込み、その空っぽの内部をサングラスの奥の瞳で冷たく観察していた。
「……現金は、およそ二千万円。それと」
龍也の背後で、頭に包帯を巻いたカジノの支配人が、ガタガタと震えながら報告を絞り出す。
「お、奥に隠してあった……ハジキが三丁、弾倉と一緒に持っていかれました……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、龍也の指先が、金庫の冷たい鉄の表面でピタリと止まった。
【変質】
「ハジキだと……?」
龍也の声は、変わらず平坦だった。
だが、その奥底に、五年ぶりに微かな【焦燥】の色が混じったのを、隣にいた翼だけは聞き逃さなかった。
虎伯は、自分の拳しか信じない男だった。
どんなに追い詰められても、決して道具(凶器)には頼らない。それが、白岩虎伯という男の唯一の美学であり、限界でもあったはずだ。
だが、昨夜の虎伯は鉄パイプを振り回し、あろうことか拳銃まで奪っていった。
それは、虎伯が「表の世界の人間」であることを完全に捨て去り、自分と同じ「修羅」へと堕ちたことを意味していた。
龍也はゆっくりと立ち上がり、コートのポケットから百円の使い捨てライターを取り出した。
シュボッ。
煙草に火を点け、紫煙を深く吸い込む。
「大澤くん。……あなたの元相棒、いよいよ手に負えなくなってきたわね」
翼が、冷ややかな声で言う。
「野良犬が狂犬病に罹っただけだ。……すぐに処分する」
その時。
龍也のチェスターコートの内ポケットで、携帯電話が低く震えた。
液晶画面には、非通知の表示。
だが、この番号を知っている人間は限られている。
龍也は煙草を口にくわえたまま、通話ボタンを押した。
「……大澤です」
『……カジノの惨状、耳に入ったぞ』
電話の主は、相模会幹部の黒田だった。
その声は、重く、低く、そして明確な殺意を帯びていた。
「申し訳ありません。俺の過去の不始末です。……必ず、俺の手で終わらせます」
『お前の不始末で、組のシノギが数千万飛んだ。若い衆も何人も使い物にならなくなった。……お前、自分の立場が分かっているのか?』
黒田の言葉に、龍也は無言で奥歯を噛み締めた。
ヤクザの世界において、シノギを潰されることは何よりも重い罪だ。
それが、自分が過去に生かしておいた「ガキ」の仕業となれば、龍也自身の首が飛ぶ。
『氷室を待機させてある。……今日中に、あの金髪のガキの死体を俺の前に持ってこい。できなければ、お前が氷室に処分される番だ。分かったな』
ツーツー。
無機質な切断音が響く。
【最後通牒】
龍也は携帯電話をポケットにしまい、口にくわえていた煙草を床に吐き捨てた。
そして、革靴の裏で、その火を乱暴に踏み消す。
「……鮫島を呼べ」
龍也の冷酷な声が、店内に響いた。
「は、はいッ!」
待機していた若い衆が慌てて外へ走り出す。
龍也は、サングラスを外し、その漆黒の瞳を剥き出しにした。
「翼。……少し、本気で掃除をする。俺の動かせる兵隊を全部集めろ」
「……あら、やっとその気になった?」
翼が、妖艶な笑みを浮かべる。
「殺す。……あいつの骨の髄まで、残さずにな」
龍也の瞳に宿ったのは、計算や合理性ではない。
純粋で、底なしの【殺意】だった。
同じ日の、午後。
横浜の外れにある、うらぶれた安モーテルの一室。
カーテンは閉め切られ、部屋の中はカビと煙草の匂いが充満している。
ベッドの上には、血で汚れた包帯と、ガーゼが散乱していた。
白岩虎伯は、上半身裸のまま、洗面所の鏡の前に立っていた。
【痛みの記録】
彼の巨大な肉体は、文字通り満身創痍だった。
氷室に撃たれた左肩の銃創。
マチェーテで切り裂かれた太もも。
そして、無数の打撲痕。
虎伯は、薬局で買ってきた安物の消毒液を、自分の肩の銃創に直接ドボドボと振りかけた。
「っ……!!」
激痛に、虎伯の全身の筋肉がビクンと跳ね上がる。
だが、彼は声を出さなかった。
鏡に映る自分の顔を、ただジッと睨みつける。
その瞳は、ひどく充血し、人間らしい光を完全に失っていた。
虎伯は、新しいバンテージを肩と胸にきつく巻きつけ、黒いタンクトップを着た。
その上に、血の染みが落ちない黒い革ジャンを羽織る。
そして、洗面台の横に置かれていた、黒い布の包みを手にとった。
カジノから奪った、三丁のトカレフ。
虎伯は、その中の一丁を手に取り、不器用な手つきでスライドを引いた。
カチャッ。
薬室に弾が送り込まれる、冷たくて重い金属音。
(……源さん。俺、とうとうこれを持っちまったよ)
虎伯の脳裏に、病室で眠り続ける源さんの顔が浮かぶ。
「何かを守るために拳を使え」と教えてくれた人。
だが、守るべきものを奪われた今、虎伯の手にあるのは、完全に何かを「壊すため」だけの道具だった。
虎伯は、拳銃の安全装置を外し、革ジャンの内ポケットにねじ込んだ。
残りの二丁と弾倉は、ボストンバッグに放り込む。
そして、ズボンのポケットから、銀色のジッポーライターを取り出した。
カチッ。
青い炎が、暗いモーテルの一室を照らす。
【修羅の覚悟】
虎伯はその炎を見つめながら、低く、獣のように呟いた。
「……龍也。俺はお前を、絶対に許さねえ」
虎伯はライターの蓋を閉じ、モーテルの部屋を後にした。
彼が向かうのは、龍也を誘い出すための「次なる獲物」の場所だった。
夕方。
横浜の港湾地帯にある、古びた立体駐車場。
そこは、龍虎会の末端の不良たちが、闇金の回収金を集めるための「中継地点」として使っている場所だった。
三台のワンボックスカーが停まり、柄の悪い男たちが七、八人、タバコを吸いながら現金が入ったジュラルミンケースの受け渡しを行っていた。
「今月の上がりは上々だな。大澤さんも喜ぶぜ」
リーダー格の男が、札束の詰まったケースを閉めようとした、その時。
パンッ!!
【奇襲】
乾いた破裂音が、立体駐車場に響き渡った。
「うおッ!?」
男の手元にあったジュラルミンケースが、凄まじい衝撃で弾け飛び、中から大量の一万円札が宙に舞い上がった。
男たちが慌てて身を屈め、銃声のした方向へ視線を向ける。
薄暗いスロープの陰から、一人の巨漢がゆっくりと歩いてきた。
右手に黒い拳銃を構えた、白岩虎伯だった。
銃口からは、一筋の白い硝煙が立ち上っている。
虎伯の射撃は素人だが、その腕力ゆえに、銃の反動を完全に殺しきっていた。
「……ひ、白岩……ッ!」
不良の一人が、虎伯の顔を見て絶望的な声を上げる。
「動くな」
虎伯の声は、銃声よりも冷たく、重かった。
「動いた奴から、腹を撃つ」
不良たちは、一斉に両手を上げてその場に凍りついた。
目の前にいるのは、素手でも自分たちを皆殺しにできる怪物だ。それが銃を持っているとなれば、もはや抵抗など自殺行為でしかなかった。
虎伯は、舞い散る札束には目もくれず、真っ直ぐにリーダー格の男に歩み寄った。
そして、男の胸ぐらを左手で掴み上げ、車のボンネットに強引に押し付けた。
「がはッ……!」
虎伯は、男の眉間に、熱を持った銃口をピタリと押し当てた。
「……龍也は、今どこにいる」
「し、知らねえよ! 俺たちみたいな末端が、大澤さんの居場所なんて……!」
男が涙目で命乞いをする。
虎伯は、何の躊躇いもなく、銃口を男の右の太ももにずらした。
パンッ!!
【肉を貫く音】
「ぎゃあああああああああッッ!!」
男が悲鳴を上げ、太ももから血が噴き出す。
周囲の不良たちが、恐怖でガタガタと震え上がり、腰を抜かした。
虎伯は、男の顔面に再び銃口を戻した。
その瞳には、かつての「喧嘩」の熱はない。完全に、作業として人間を破壊する【死神】の目になっていた。
「……次で思い出すか? それとも、一生喋れなくしてやろうか」
「い、言う! 言うから撃たないでくれェッ!」
男が、激痛に顔を歪めながら叫んだ。
「だ、第十七埠頭だ……! 昔の組合事務所があった場所……! 今夜、あそこで大澤さんが、幹部を集めて緊急の寄り合いを開くって……!」
虎伯の目が、微かに見開かれた。
第十七埠頭。
五年前、龍也が重機でバラックを潰し、源さんが撃たれたあの場所。
全ての因縁が始まった、あの血塗られたコンクリートの上。
虎伯は、男をボンネットに投げ捨てた。
「……そうか」
虎伯は銃を懐にしまい、踵を返した。
「……龍也。お前も、そこで終わらせるつもりなんだな」
【引鉄の予感】
2002年、初冬の夜。
冷たい海風が吹き荒れる第十七埠頭へ向け、白岩虎伯は歩き出した。
かつて背中を預け合った二人の少年は、互いの手に冷たい鉄を握りしめ、二度と引き返せない最後の殺し合いの舞台へと向かっていた。
もう、言葉はいらない。
どちらかの心臓が止まるまで、この狂気は終わらない。




