表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/28

龍虎の境界 ―第14話:龍の焦燥、虎の追跡―

2002年、初冬。

血と、焦げた硝煙と、吐瀉物の匂いが混ざり合った、凄惨な空間だった。

横浜・南地区。

昨夜、白岩虎伯によって単独で壊滅させられた相模会系の違法カジノ。

警察の介入を防ぐため、シャッターは固く閉ざされ、中はすでに「身内」による清掃作業が始まっていた。

大澤龍也は、ガラスの破片が散乱する床を、革靴で静かに踏みしめながら歩いていた。

ジャリッ、ジャリッ。

無機質な足音だけが、不気味なほど静まり返った店内に響く。

龍也の視線の先には、原型を留めないほどに破壊されたルーレット台と、血の海に沈んだまま動かない数人の組員たちの姿があった。

壁には、鉄パイプで殴りつけられた際に開いた巨大な穴が、まるで猛獣の爪痕のように生々しく残っている。

【蹂躙の痕跡】

「……ひどい有様ね。まるで、ダンプカーが店内に突っ込んだみたい」

背後から、毛皮のコートを羽織った桑原翼が、ハンカチで鼻を押さえながら近づいてきた。

彼女のヒールが、血溜まりを避けて不規則なリズムを刻む。

龍也は何も答えない。

ただ、破壊された金庫の前にしゃがみ込み、その空っぽの内部をサングラスの奥の瞳で冷たく観察していた。

「……現金は、およそ二千万円。それと」

龍也の背後で、頭に包帯を巻いたカジノの支配人が、ガタガタと震えながら報告を絞り出す。

「お、奥に隠してあった……ハジキが三丁、弾倉と一緒に持っていかれました……ッ!」

その言葉を聞いた瞬間、龍也の指先が、金庫の冷たい鉄の表面でピタリと止まった。

【変質】

「ハジキだと……?」

龍也の声は、変わらず平坦だった。

だが、その奥底に、五年ぶりに微かな【焦燥】の色が混じったのを、隣にいた翼だけは聞き逃さなかった。

虎伯は、自分の拳しか信じない男だった。

どんなに追い詰められても、決して道具(凶器)には頼らない。それが、白岩虎伯という男の唯一の美学であり、限界でもあったはずだ。

だが、昨夜の虎伯は鉄パイプを振り回し、あろうことか拳銃まで奪っていった。

それは、虎伯が「表の世界の人間」であることを完全に捨て去り、自分と同じ「修羅」へと堕ちたことを意味していた。

龍也はゆっくりと立ち上がり、コートのポケットから百円の使い捨てライターを取り出した。

シュボッ。

煙草に火を点け、紫煙を深く吸い込む。

「大澤くん。……あなたの元相棒、いよいよ手に負えなくなってきたわね」

翼が、冷ややかな声で言う。

「野良犬が狂犬病に罹っただけだ。……すぐに処分する」

その時。

龍也のチェスターコートの内ポケットで、携帯電話が低く震えた。

液晶画面には、非通知の表示。

だが、この番号を知っている人間は限られている。

龍也は煙草を口にくわえたまま、通話ボタンを押した。

「……大澤です」

『……カジノの惨状、耳に入ったぞ』

電話の主は、相模会幹部の黒田だった。

その声は、重く、低く、そして明確な殺意を帯びていた。

「申し訳ありません。俺の過去の不始末です。……必ず、俺の手で終わらせます」

『お前の不始末で、組のシノギが数千万飛んだ。若い衆も何人も使い物にならなくなった。……お前、自分の立場が分かっているのか?』

黒田の言葉に、龍也は無言で奥歯を噛み締めた。

ヤクザの世界において、シノギを潰されることは何よりも重い罪だ。

それが、自分が過去に生かしておいた「ガキ」の仕業となれば、龍也自身の首が飛ぶ。

『氷室を待機させてある。……今日中に、あの金髪のガキの死体を俺の前に持ってこい。できなければ、お前が氷室に処分される番だ。分かったな』

ツーツー。

無機質な切断音が響く。

【最後通牒】

龍也は携帯電話をポケットにしまい、口にくわえていた煙草を床に吐き捨てた。

そして、革靴の裏で、その火を乱暴に踏み消す。

「……鮫島を呼べ」

龍也の冷酷な声が、店内に響いた。

「は、はいッ!」

待機していた若い衆が慌てて外へ走り出す。

龍也は、サングラスを外し、その漆黒の瞳を剥き出しにした。

「翼。……少し、本気で掃除をする。俺の動かせる兵隊を全部集めろ」

「……あら、やっとその気になった?」

翼が、妖艶な笑みを浮かべる。

「殺す。……あいつの骨の髄まで、残さずにな」

龍也の瞳に宿ったのは、計算や合理性ではない。

純粋で、底なしの【殺意】だった。

同じ日の、午後。

横浜の外れにある、うらぶれた安モーテルの一室。

カーテンは閉め切られ、部屋の中はカビと煙草の匂いが充満している。

ベッドの上には、血で汚れた包帯と、ガーゼが散乱していた。

白岩虎伯は、上半身裸のまま、洗面所の鏡の前に立っていた。

【痛みの記録】

彼の巨大な肉体は、文字通り満身創痍だった。

氷室に撃たれた左肩の銃創。

マチェーテで切り裂かれた太もも。

そして、無数の打撲痕。

虎伯は、薬局で買ってきた安物の消毒液を、自分の肩の銃創に直接ドボドボと振りかけた。

「っ……!!」

激痛に、虎伯の全身の筋肉がビクンと跳ね上がる。

だが、彼は声を出さなかった。

鏡に映る自分の顔を、ただジッと睨みつける。

その瞳は、ひどく充血し、人間らしい光を完全に失っていた。

虎伯は、新しいバンテージを肩と胸にきつく巻きつけ、黒いタンクトップを着た。

その上に、血の染みが落ちない黒い革ジャンを羽織る。

そして、洗面台の横に置かれていた、黒い布の包みを手にとった。

カジノから奪った、三丁のトカレフ。

虎伯は、その中の一丁を手に取り、不器用な手つきでスライドを引いた。

カチャッ。

薬室に弾が送り込まれる、冷たくて重い金属音。

(……源さん。俺、とうとうこれを持っちまったよ)

虎伯の脳裏に、病室で眠り続ける源さんの顔が浮かぶ。

「何かを守るために拳を使え」と教えてくれた人。

だが、守るべきものを奪われた今、虎伯の手にあるのは、完全に何かを「壊すため」だけの道具だった。

虎伯は、拳銃の安全装置を外し、革ジャンの内ポケットにねじ込んだ。

残りの二丁と弾倉は、ボストンバッグに放り込む。

そして、ズボンのポケットから、銀色のジッポーライターを取り出した。

カチッ。

青い炎が、暗いモーテルの一室を照らす。

【修羅の覚悟】

虎伯はその炎を見つめながら、低く、獣のように呟いた。

「……龍也。俺はお前を、絶対に許さねえ」

虎伯はライターの蓋を閉じ、モーテルの部屋を後にした。

彼が向かうのは、龍也を誘い出すための「次なる獲物」の場所だった。

夕方。

横浜の港湾地帯にある、古びた立体駐車場。

そこは、龍虎会の末端の不良たちが、闇金の回収金を集めるための「中継地点」として使っている場所だった。

三台のワンボックスカーが停まり、柄の悪い男たちが七、八人、タバコを吸いながら現金が入ったジュラルミンケースの受け渡しを行っていた。

「今月の上がりは上々だな。大澤さんも喜ぶぜ」

リーダー格の男が、札束の詰まったケースを閉めようとした、その時。

パンッ!!

【奇襲】

乾いた破裂音が、立体駐車場に響き渡った。

「うおッ!?」

男の手元にあったジュラルミンケースが、凄まじい衝撃で弾け飛び、中から大量の一万円札が宙に舞い上がった。

男たちが慌てて身を屈め、銃声のした方向へ視線を向ける。

薄暗いスロープの陰から、一人の巨漢がゆっくりと歩いてきた。

右手に黒い拳銃を構えた、白岩虎伯だった。

銃口からは、一筋の白い硝煙が立ち上っている。

虎伯の射撃は素人だが、その腕力ゆえに、銃の反動を完全に殺しきっていた。

「……ひ、白岩……ッ!」

不良の一人が、虎伯の顔を見て絶望的な声を上げる。

「動くな」

虎伯の声は、銃声よりも冷たく、重かった。

「動いた奴から、腹を撃つ」

不良たちは、一斉に両手を上げてその場に凍りついた。

目の前にいるのは、素手でも自分たちを皆殺しにできる怪物だ。それが銃を持っているとなれば、もはや抵抗など自殺行為でしかなかった。

虎伯は、舞い散る札束には目もくれず、真っ直ぐにリーダー格の男に歩み寄った。

そして、男の胸ぐらを左手で掴み上げ、車のボンネットに強引に押し付けた。

「がはッ……!」

虎伯は、男の眉間に、熱を持った銃口をピタリと押し当てた。

「……龍也は、今どこにいる」

「し、知らねえよ! 俺たちみたいな末端が、大澤さんの居場所なんて……!」

男が涙目で命乞いをする。

虎伯は、何の躊躇いもなく、銃口を男の右の太ももにずらした。

パンッ!!

【肉を貫く音】

「ぎゃあああああああああッッ!!」

男が悲鳴を上げ、太ももから血が噴き出す。

周囲の不良たちが、恐怖でガタガタと震え上がり、腰を抜かした。

虎伯は、男の顔面に再び銃口を戻した。

その瞳には、かつての「喧嘩」の熱はない。完全に、作業として人間を破壊する【死神】の目になっていた。

「……次で思い出すか? それとも、一生喋れなくしてやろうか」

「い、言う! 言うから撃たないでくれェッ!」

男が、激痛に顔を歪めながら叫んだ。

「だ、第十七埠頭だ……! 昔の組合事務所があった場所……! 今夜、あそこで大澤さんが、幹部を集めて緊急の寄り合いを開くって……!」

虎伯の目が、微かに見開かれた。

第十七埠頭。

五年前、龍也が重機でバラックを潰し、源さんが撃たれたあの場所。

全ての因縁が始まった、あの血塗られたコンクリートの上。

虎伯は、男をボンネットに投げ捨てた。

「……そうか」

虎伯は銃を懐にしまい、踵を返した。

「……龍也。お前も、そこで終わらせるつもりなんだな」

【引鉄の予感】

2002年、初冬の夜。

冷たい海風が吹き荒れる第十七埠頭へ向け、白岩虎伯は歩き出した。

かつて背中を預け合った二人の少年は、互いの手に冷たい鉄を握りしめ、二度と引き返せない最後の殺し合いの舞台へと向かっていた。

もう、言葉はいらない。

どちらかの心臓が止まるまで、この狂気は終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ