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龍虎の境界 ―第15話:第十七埠頭、血と錆の決算―

2002年、初冬。

深夜の第十七埠頭は、すべての熱を海に奪われたかのように冷え切っていた。

かつて港湾労働者たちの組合事務所があり、源さんたちが必死に守ろうとした場所。

そこは今、巨大な油圧ショベルとブルドーザーによって完全にならされ、ただの無機質なコンクリートの平野へと姿を変えていた。

血の跡も、汗の染み込んだ土も、すべてがアスファルトの下に塗り込められている。

その広大な闇の中央に、数台の黒いセダンがヘッドライトを消して停まっていた。

【静寂の陣】

車の前に立っているのは、大澤龍也だった。

漆黒のチェスターコートのポケットに両手を突っ込み、凍てつくような海風に長い髪を揺らしている。

黒いサングラスの奥の瞳は、足元に広がる何もない闇をただ見下ろしていた。

龍也の背後には、相模会の精鋭部隊が十名ほど控えている。

全員が防弾チョッキを着込み、上着の下には本物のハジキを隠し持っていた。

さらに、少し離れたクレーン車の陰には、ヒットマンの氷室が、暗視スコープ付きの狙撃銃を構えて息を潜めている。

完全な、殺戮の包囲網。

龍也は、ポケットから百円の使い捨てライターを取り出した。

シュボッ。

安い火花が散り、煙草の先に赤い火が灯る。

龍也は紫煙を深く吸い込み、海に向かって細く吐き出した。

「……龍也さん。本当に、あいつ一人で来るんでしょうか」

傍らに立つ若い衆が、寒さと緊張で歯の根を鳴らしながら尋ねる。

「来る」

龍也の声は、波の音よりも冷たく、平坦だった。

「あいつは馬鹿だからな。……理屈じゃなく、本能で必ずここへ来る」

その時だった。

【重い足音】

コンクリートの平野の向こう側から、闇を切り裂くように、一つの足音が近づいてきた。

ザッ、ザッ。

決して急ぐことなく、だが、決して止まることのない、巨大な質量の移動音。

龍也の背後にいる組員たちが、一斉に上着の懐に手を入れる。

金属が擦れる、冷たい音が埠頭に響いた。

街灯一つない闇の中から、ゆっくりと姿を現した男。

黒い革ジャン。

丸刈りの金髪。

そして、左肩に巻かれた白いバンテージが、闇の中で異様に浮き上がっている。

白岩虎伯だった。

【孤独な獣】

虎伯の両手には、何も握られていない。

だが、その全身から放たれる殺気は、周囲の空気を歪ませるほどに濃密だった。

龍也から十メートルの距離。

虎伯はそこで立ち止まり、深く、荒い息を吐いた。

白い息が、夜の空気に溶けていく。

「……来たな、虎伯」

龍也が、煙草を口にくわえたまま静かに言った。

虎伯は、周囲を取り囲むヤクザたちを一瞥すらしなかった。

彼の視界には、ただ一人、大澤龍也だけが映っている。

「……お前が、俺をここに呼んだんだろ。龍也」

虎伯の低く、地鳴りのような声が響く。

「お前が俺から大事なものを奪い、俺の行き場をなくした。……俺を、お前と同じ地獄に引きずり込むためにな」

「買い被るな」

龍也は煙草を地面に落とし、革靴の裏で無造作に踏み消した。

「俺はお前を呼んでいない。お前という『エラー』が、俺のシステムを邪魔したから、今日ここで消去するだけだ」

【交わらない視線】

「エラーだと……?」

虎伯の太い首の血管が、ブチブチと音を立てて膨張した。

「源さんはエラーだったのか!? 必死に働いてたあの人たちが、お前の言う『システム』の邪魔だったから消したのか!」

「そうだ。……価値のない人間は、価値のある土地を譲る。それが表のルールであり、裏のルールだ。お前がこだわっている『情』なんてものは、一円の利益も生み出さない」

龍也の完璧なまでに冷徹な論理。

虎伯は、ゆっくりと右手を革ジャンの内ポケットに差し込んだ。

その動作を見た瞬間、周囲のヤクザたちが一斉に銃を抜き、虎伯に銃口を向けた。

チャキッ、チャカッ。

十個以上の銃口が、虎伯の巨体に照準を合わせる。

だが、虎伯の表情には微塵の恐怖もなかった。

彼はポケットから、銀色のジッポーライターを取り出した。

かつて、龍也が愛用し、あの血まみれの倉庫に捨てていったもの。

「……龍也。俺はお前と、この街の頂点を見るつもりだった」

虎伯は、ジッポーの蓋を開けた。

カチッ。

【決別の炎】

青い炎が、虎伯の顔を照らす。

「でも、俺が見たかった頂点は、こんな血の匂いがする場所じゃねえ。……俺は、お前を止める。これ以上、誰も泣かせないためにな」

虎伯は、火の点いたジッポーライターを、龍也の足元に向かって放り投げた。

カラン、と銀色の金属がコンクリートを転がり、炎が風に煽られて消える。

それと同時に。

虎伯は、背中に回していた左手で、ベルトに挟んでいたロシア製拳銃・トカレフを引き抜いた。

【開戦】

「撃てッ!!」

ヤクザの一人が叫ぶ。

パンッ! パンッ! パンッ!

無数の銃声が、夜の埠頭に響き渡った。

マズルフラッシュが闇を照らし、硝煙の匂いが一気に立ち込める。

だが、虎伯の動きは、銃を構えたヤクザたちの予測を遥かに超えていた。

虎伯は、身を屈めるのではなく、巨大な体を弾丸のように【前へ】と突進させたのだ。

「おおおおおおおッ!」

獣の咆哮。

ヤクザの放った銃弾が、虎伯の革ジャンを掠め、右腕の肉を浅く削り取る。

血しぶきが舞うが、虎伯の歩みは止まらない。

虎伯は、先頭にいたヤクザの懐に飛び込み、持っていたトカレフの銃口をその男の腹に押し当てた。

パンッ!

鈍い破裂音とともに、男がくの字に折れ曲がって吹き飛ぶ。

「ひぃッ……! な、なんだこいつ!」

ヤクザたちが混乱し、同士討ちを恐れて射撃の手が鈍る。

その一瞬の隙を、虎伯の【剛の暴力】が蹂躙した。

虎伯は銃を撃つだけでなく、持ち前の圧倒的な腕力で、迫る男の腕を掴んでへし折り、そのまま別の男に向かって投げつける。

銃声と、骨が砕ける音、そして断末魔の悲鳴が交差する。

【血塗られた狂乱】

龍也は、その惨劇を数歩下がった場所から、微動だにせず見つめていた。

虎伯の左肩はすでに血で黒く染まり、右腕からも血が滴り落ちている。

それでも、虎伯は痛みを感じていないかのように、ただひたすらにヤクザたちを粉砕していく。

(……馬鹿な奴だ。いくら暴れたところで、最後は多勢に無勢だ)

龍也は、コートの懐から自分のトカレフを取り出し、ゆっくりと安全装置を外した。

虎伯が、最後のヤクザの顎を拳でカチ上げ、完全に沈黙させた。

埠頭には、呻き声を上げる十名の男たちが転がっている。

虎伯は荒い息を吐きながら、血走った目を龍也に向けた。

彼我の距離は、わずか五メートル。

虎伯が、持っていたトカレフの銃口を龍也に向ける。

龍也もまた、冷徹な動作で虎伯の眉間に銃口を合わせた。

【交差する銃口】

二人の男が、互いの命を奪うための鉄の筒を突きつけ合う。

15歳の夏、同じ空を見上げた二人は、今、互いの死顔を見つめていた。

「……撃てよ、虎伯」

龍也の平坦な声が、硝煙の煙を切り裂く。

「お前が引き金を引くのが先か、俺が先か。……どちらにせよ、お前はここで死ぬ」

「……ああ。お前を道連れにしてな」

虎伯の指が、トリガーに掛かる。

その時だった。

ヒュッ。

風を切るような、微かな音が鳴った。

【死神の狙撃】

虎伯の右膝が、突然、見えない力によって後方へ激しく弾け飛んだ。

「がはッ……!?」

パンッ、というサプレッサー越しの銃声が、一秒遅れて響く。

クレーンの陰に潜んでいた氷室の狙撃だった。

闇の中、数十メートル離れた場所からの、精密な膝への一撃。

虎伯の右膝の関節が完全に破壊され、彼は支えを失ってコンクリートの上に激しく転倒した。

「……ぐあぁぁぁぁッ!」

虎伯が、激痛に顔を歪め、地面を転げ回る。

手からこぼれ落ちたトカレフが、龍也の足元まで滑っていった。

【完全なる敗北】

龍也は、足元に転がってきた虎伯の銃を一瞥し、そして、地を這う虎伯を見下ろした。

氷室が、暗闇の中からゆっくりと歩み出てくる。

その手には、まだ煙を吹く狙撃銃が握られていた。

「……手間を取らせるな、大澤」

氷室が、無感情に言い放つ。

「野良犬は、足を折ってから頭を撃ち抜く。それが駆除の基本だ」

氷室は狙撃銃を肩に担ぎ、腰から拳銃を抜いて、倒れている虎伯の頭に狙いを定めた。

虎伯は、砕けた右膝から大量の血を流しながらも、龍也を睨みつけていた。

その目には、死への恐怖はない。

ただ、自分をこの地獄に招き入れた龍也への、底知れない悲哀だけがあった。

「……殺せよ、龍也」

虎伯が、血を吐きながら呟く。

「他人にやらせるな。……お前の手で、俺を殺せ」

龍也のサングラスの奥の瞳が、初めて、ほんのわずかに揺さぶられた。

虎伯の命を絶てば、自分の過去は完全に消去される。

そして、名実ともに相模会の幹部として、この街の裏社会を支配することができる。

龍也は、氷室に向かって静かに言った。

「……俺がやる。あんたは手を出さないでくれ」

氷室は眉をピクリと動かしたが、やがて無言で銃を下ろした。

龍也は、ゆっくりと虎伯に近づいた。

【最後の一瞥】

見下ろす龍也。

見上げる虎伯。

五年の空白を埋めるように、二人の視線が交差する。

龍也は、右手に持ったトカレフの銃口を、虎伯の心臓にピタリと押し当てた。

冷たい鉄の感触。

「……お前が間違えたんだ、虎伯」

龍也が、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。

「お前が、あの光の当たる場所から出てこなければ、こんなことにはならなかった」

虎伯は、苦痛に歪んだ顔で、フッと自嘲気味に笑った。

「……光なんて、どこにもなかったよ。お前がいない世界にはな」

龍也の指が、トリガーに力を込める。

【暗転】

パンッ。

一発の銃声が、冷たい夜の海に吸い込まれていった。

血の匂いと、火薬の匂い。

そして、降り始めた冷たい雪が、第十七埠頭のコンクリートを白く染め始めていた。

誰の血が流れたのか。

誰の心臓が止まったのか。

2002年、冬の始まり。

修羅の道を選んだ二人の男の物語は、ここで一つの決定的な終止符を打つことになる。

――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。

その答えは、沈黙する闇の中へと永遠に葬り去られた。

【第16話:残された弾痕、偽りの支配者】へ続く。

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