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龍虎の境界 ―第16話:残された弾痕、偽りの支配者―

2002年、初冬。

耳をつんざくような銃声の残響が、雪の混じる冷たい海風に溶けていく。

第十七埠頭の暗闇の中。

大澤龍也の構えたトカレフの銃口から、細く白い硝煙が立ち昇っていた。

白岩虎伯の巨体が、ビクンと大きく跳ねる。

【着弾】

虎伯の左胸。

心臓からわずか数センチ外れた大胸筋を、熱い鉛玉が貫通していた。

「ご、ふッ……!」

虎伯の口から、大量の鮮血が吐き出され、コンクリートを赤黒く染める。

膝を砕かれ、胸を撃ち抜かれた虎伯は、ついにその巨体を支えきれず、後ろへとのけぞるように崩れ落ちようとした。

龍也は、銃を下げないまま一歩踏み込み、倒れゆく虎伯の革ジャンの胸ぐらを、空いた左手で強引に掴み上げた。

二人の顔が、再び数センチの距離で交差する。

氷室や、遠巻きに見ている組員たちには決して聞こえない距離。

龍也は、サングラスの奥の瞳を虎伯に向け、息を吐くように囁いた。

「……泥を啜ってでも、生き延びろ」

虎伯の血走った目が、微かに見開かれる。

直後。

龍也は無慈悲に左手を放し、虎伯の胸板を安全靴で思い切り蹴り飛ばした。

【投棄】

虎伯の体は、埠頭の縁から弾き出され、漆黒の冬の海へと真っ逆さまに落下していった。

ザッバーーーンッ!!

重い水しぶきの音が、夜の闇に響き渡る。

龍也は埠頭の縁に立ち、波立つ暗い海面を見下ろした。

血の跡が黒く滲んでいるが、虎伯の姿は一瞬で暗い水底へと消え去っていた。

背後から、氷室が静かな足音で近づいてきた。

氷室もまた、暗い海面を覗き込む。

「……甘いな、大澤。頭を撃ち抜いてから捨てるのが確実だ」

氷室の蛇のような目が、龍也の横顔を睨む。

龍也は表情一つ変えず、コートの懐に銃をしまった。

「肺を撃ち抜きました。おまけに右膝の関節は砕け、左肩も撃たれている。……この水温なら、五分で心臓が止まる。死体の処理を海に任せただけです」

龍也の完璧なまでに冷徹な声。

そこには、かつての友を殺した動揺など、微塵も感じられなかった。

氷室は数秒間、龍也の目をじっと見つめ返していたが、やがて鼻で短く笑った。

「……いいだろう。これで、南地区のシノギの邪魔者は完全に消えたわけだ」

氷室は踵を返し、クレーン車の陰へと消えていく。

龍也は、誰もいなくなった埠頭の縁で、ポケットから百円の使い捨てライターを取り出した。

シュボッ。

安い火花が散り、煙草に火が点く。

龍也の足元には、先ほど虎伯が放り投げた【銀色のジッポーライター】が、血だまりの中に転がっていた。

龍也はそれを拾おうとはしなかった。

ただ、革靴の裏で無造作に蹴り飛ばす。

カラン、という虚しい金属音とともに、ジッポーは虎伯の後を追うように、暗い海へと落ちていった。

【決別の証明】

これでもう、大澤龍也を過去に縛り付けるものは何一つなくなった。

彼は完全に、血と鉄で構成された裏社会の「システム」そのものになったのだ。

それから、半年後。

2003年、初夏。

横浜の裏社会は、大澤龍也という若き怪物の、完全なる支配下にあった。

みなとみらい地区の、最上階層にある高級タワーマンション。

大理石の床に、オーダーメイドのイタリア製家具が並ぶ、広大なリビング。

龍也は、純白の革張りのソファに深く腰掛け、グラスに入った冷たいミネラルウォーターを飲んでいた。

部屋の片隅には、松葉杖が取れ、特注の杖をつくようになった鮫島が直立不動で立っている。

「……龍也さん。先月の南地区の違法カジノの上がり、三千万を黒田幹部へ上納してきました。それと、債務者のリスト更新も完了しています」

鮫島の報告は、淀みなく完璧だった。

虎伯の襲撃という「エラー」を完全に排除して以来、龍虎会のシノギは爆発的に拡大していた。

龍也は暴力を使わず、情報と金で人間を縛り付ける。

逆らう者は、相模会の氷室が暗闇で「処理」する。

【偽りの平穏】

完璧な恐怖のシステム。

龍也は、名実ともに横浜の南地区を支配する【若き王】となっていた。

「……ご苦労。次は、川崎の物流倉庫の権利書を押さえろ」

龍也が淡々と指示を出す。

「はいッ! 直ちに手配します!」

鮫島が深く頭を下げ、部屋を退出していく。

静寂が戻ったリビングに、寝室から桑原翼が姿を現した。

彼女はシルクのガウンを羽織り、手に持ったシャンパングラスを揺らしている。

「大澤くん。……最近、少し働きすぎじゃない? たまには羽を伸ばしたら?」

翼がソファの背もたれに寄りかかり、龍也の首筋に冷たい指先を這わせる。

龍也は、その手を払いのけることもなく、ただ窓の外に広がる横浜の青い海と空を見つめていた。

「……休む理由がない」

「そう。……ねえ、あんた、本当に何も感じなくなったのね」

翼が、少しだけつまらなそうに呟く。

「あの金髪の大きなワンちゃんを海に沈めてから、あんたは『完璧な機械』になったわ。……でも、時々、すごく虚しそうな目をする。まるで、自分の心臓まで一緒に撃ち抜いちゃったみたいに」

龍也はグラスをテーブルに置き、立ち上がった。

「……俺はシステムだ。システムに心臓はない」

龍也はチェスターコートを羽織り、部屋のドアへと向かう。

手に入れた富。絶対的な権力。誰も逆らえない恐怖。

15歳の夏、市営住宅の屋上で夢見た「頂点の景色」は、これだったはずだ。

だが、龍也の立っているその頂点は、凍りつくように寒く、そして息が詰まるほどに孤独だった。

【泥の中の鼓動】

同じ頃。

横浜の光が一切届かない、地下深くの暗闇。

廃線となった地下鉄の作業通路の奥に、不法滞在者やホームレスたちが寄り集まって生きる、悪臭の漂うスラムがあった。

その一角にある、汚れた毛布が敷かれただけの空間。

そこに、一人の巨漢が横たわっていた。

白岩虎伯だった。

【生還】

彼の肉体には、数え切れないほどの縫合痕が刻まれていた。

左胸の銃創。砕かれた右膝。マチェーテによる太ももの裂傷。

あの夜、冬の海に沈んだ虎伯は、潮の流れに乗って岸壁に打ち上げられていたところを、源さんの仲間のホームレスたちに拾われたのだ。

モグリの医者による度重なる手術と、強靭すぎる生命力で、虎伯は三ヶ月の昏睡状態から奇跡的に目を覚ましていた。

だが、その後遺症は深刻だった。

虎伯は、ゆっくりと上半身を起こした。

ギシッ、ギシッ。

体を動かすたびに、砕けた右膝と左胸の奥から、焼け焦げるような激痛が走る。

かつてのような、一撃で人間の頭蓋骨を粉砕する「圧倒的な暴力」は、もはや彼の肉体には残されていなかった。

傍らで、煮炊きをしていた浮浪者の老人が声をかける。

「……おぅ、起きたか、デカいの。無理すんじゃねえぞ。お前の右足は、もうまともには動かねえんだからな」

虎伯は、自分の細くなった右足のふくらはぎを、分厚い手で静かに撫でた。

怒りはない。

絶望もない。

今の虎伯の瞳の奥にあるのは、全ての感情を焼き尽くした後に残る、絶対零度の【虚無】だった。

虎伯は、自分の枕元に置かれていた、錆びついた金属の塊を手に取った。

あの夜、海に沈む直前に龍也が海へ蹴り落とし、虎伯の革ジャンのポケットに偶然引っかかっていた【銀色のジッポーライター】だった。

海水に浸かり、完全に壊れて火の点かなくなったライター。

虎伯は、その冷たい金属を、大きな掌でギュッと握りしめた。

「……龍也」

ひび割れた唇から、砂を噛むような声が漏れる。

「お前が俺を生かした。……俺は、泥を啜ってでも生き延びたぞ」

【修羅の第二幕】

もはや、かつてのような力任せの喧嘩はできない。

だが、今の虎伯には、失うものが何一つなかった。

表の世界の優しさも、源さんとの温かい記憶も、すべて捨てた。

ただ一つ、大澤龍也という男の【システム】を完膚なきまでに破壊するという、漆黒の目的だけが彼を突き動かしていた。

2003年、夏。

王座に君臨する冷酷な龍と。

地下の泥の中から、静かに牙を研ぎ直す傷だらけの虎。

五年の時を経て再び交わった二人の運命は、より深く、より陰惨な第二幕へと突入していく。

――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。

その答えを探すための、本当の地獄はこれから始まる。

【第17話:地下の亡霊、見えない牙】へ続く。

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