龍虎の境界 ―第17話:地下の亡霊、見えない牙―
2003年、晩夏。
横浜の夜は、まとわりつくような湿気と熱帯夜の息苦しさに支配されていた。
みなとみらいの煌びやかなネオンから完全に切り離された、寿町周辺のドヤ街。
そのさらに奥深く、放置された地下水路の入り口付近には、社会から完全に「透明」にされた人間たちが、虫のように蠢きながら息を潜めている。
【狩場】
深夜二時。
龍虎会の末端で、違法薬物の密売と集金を行っている若い売人、木田は、舌打ちをしながら地下水路の入り口へと足を踏み入れた。
「クソッ……。なんで俺が、こんなホームレスの吹き溜まりまで集金に来なきゃならねえんだよ」
木田は、懐中電灯の光を頼りに、悪臭の漂う通路を進む。
大澤龍也が構築したシステムは、街の不良だけでなく、借金で首が回らなくなった労働者や、戸籍を持たない不法滞在者までを「顧客」として完全に組み込んでいた。
木田の今日の目的は、この地下に潜伏している債務者から、ヤクの代金を回収することだ。
チャプ、チャプ。
汚水を踏む音が、不気味に響く。
「おい! 薬の代金、用意できてるんだろうな!」
木田が怒鳴る。
だが、返事はない。
その時。
ピンッ。
木田の足首が、暗闇に張られていた細いピアノ線に引っかかった。
【罠】
「あ……?」
木田がバランスを崩した瞬間、頭上の古い配管の上に置かれていた重さ十キロのコンクリートブロックが、正確に彼の頭を目掛けて落下してきた。
「うおッ!?」
木田は間一髪で体を捻ったが、ブロックは彼の右肩を直撃した。
ゴキリ、という嫌な音が地下道に響き渡る。
「ぎゃあああっ!!」
木田は懐中電灯を落とし、汚水の中に倒れ込んで右肩を押さえてのたうち回った。
鎖骨が完全に折れている。
懐中電灯の光が、泥水を乱反射して壁を照らす。
その光の先に、ぬっと一つの巨大な影が浮かび上がった。
「……ひっ! だ、誰だッ!」
木田が後ずさる。
影が、ゆっくりと近づいてくる。
ズッ、チャプ。ズッ、チャプ。
規則的な、だが明らかに足を引きずる重い足音。
影の正体は、ボロボロの黒い革ジャンを着た巨漢だった。
右手には、先端が赤黒く変色した太い鉄のバールを、まるで杖のように突いている。
白岩虎伯だった。
【亡霊】
虎伯の顔には、無精髭が伸び、かつての面影を覆い隠している。
だが、その落ち窪んだ両の眼窩の奥には、地獄の底で燃え続けるような、恐ろしく冷たい炎が宿っていた。
「……お前、大澤のところの犬だな」
虎伯の低く掠れた声が、地下道に反響する。
「あ、あんた……誰だ! 俺が龍虎会のモンだと知ってて……!」
虎伯はバールを突き、木田の顔のすぐ前まで足を引きずりながら歩み寄った。
そして、折れた木田の右肩を、容赦なく安全靴で踏みつけた。
「あぎゃあああああああッッ!!」
「……龍也に会うなら、伝言を頼む」
虎伯は、木田の悲鳴を完全に無視して、彼の懐を探った。
売上金の入った茶封筒と、白い粉の入った袋を数個、無造作に抜き取る。
「お前らの『血の巡り』は、俺が全部止めてやる。……これで四人目だと言っておけ」
虎伯はそれだけ言うと、バールを突いて、再び暗闇の奥へと消えていった。
残された木田は、激痛と恐怖で失禁しながら、ただ暗闇に向かって震え続けていた。
かつて、自らの肉体一つで正面から壁を壊していた「剛」の虎。
右膝を砕かれ、その力を奪われた虎伯は、闇に潜み、相手の弱点を狡猾に突く【見えない牙】へと変貌を遂げていたのだ。
翌日の午後。
冷房が効きすぎた、大澤龍也のタワーマンションの一室。
テーブルの上に置かれた純銀の灰皿には、すでに数本の煙草の吸い殻が押し付けられていた。
鮫島が、顔面を蒼白にしながら報告をしている。
【亀裂】
「……昨夜、寿町の地下で木田がやられました。売上金と薬を奪われ、右肩を完全に粉砕されています。……これで、今月に入って四件目です」
龍也は、グラスの氷をカランと鳴らし、無表情のまま鮫島を見据えた。
「四人とも、相手の顔は見ていないのか」
「は、はい……。暗闇からいきなり罠にかけられたり、背後から鈍器で殴られたりで……。ただ、木田だけが、相手の特徴を少しだけ覚えていました」
鮫島が、ゴクリと唾を飲み込む。
「デカい図体で、黒い革ジャンを着て……右足を、酷く引きずっていたと」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
ソファでマニキュアを塗っていた桑原翼の動きが、ピタリと止まる。
龍也のサングラスの奥の瞳が、僅かに、だが確実に収縮した。
【幻影】
(……右足を引きずった、巨漢)
龍也の脳裏に、半年前の冬の海に沈んでいく虎伯の姿がフラッシュバックした。
自分が肺を撃ち抜き、海へ蹴り落とした男。
あの状況で生き延びることなど、医学的にも物理的にも絶対に不可能だ。
だが、龍也の直感が、サイレンのように警鐘を鳴らしていた。
「……大澤くん」
翼が、マニキュアの瓶を置き、冷たい声で言った。
「あんた、まさか『殺し損ねた』なんて言わないわよね?」
「……馬鹿な。心臓のすぐ横を貫通していた。生きているはずがない」
龍也の声は平坦だったが、その指先は無意識のうちに、ポケットの中の使い捨てライターを強く握りしめていた。
「なら、これは誰の仕業なの? あんたのシステムを熟知して、末端の集金係だけを的確に狙い撃ちしてる幽霊がいるとでも言うの?」
翼の詰問に、龍也は立ち上がった。
「……鮫島。氷室を呼べ」
龍也の決断は早かった。
「幽霊だろうが、亡霊だろうが関係ない。……地下のネズミ共の巣を、完全に『消毒』する」
数日後。
深夜の寿町。
雨が降りしきる中、数台の黒いバンが、地下水路の入り口付近に静かに停車した。
車から降りてきたのは、氷室率いる相模会のヒットマンたち十名。
全員が黒い雨合羽を羽織り、手にはサプレッサー付きの拳銃や、ガソリンの入ったポリタンクを持っている。
氷室は、暗視スコープで地下の入り口を確認した。
「……大澤の指示通り、中にいるホームレス共ごと焼き払え。ネズミ一匹逃がすな」
氷室の冷酷な命令に、ヒットマンたちが無言で頷き、地下への階段を下りていく。
【消毒作業】
地下道は、腐臭と湿気に満ちていた。
ヒットマンたちが、ポリタンクのガソリンを容赦なく撒き散らしていく。
奥で眠っていたホームレスたちが、ガソリンの臭いに気づき、慌てて起き上がる。
「な、なんだお前ら……!」
パンッ。
氷室の容赦ない銃弾が、老人のホームレスの額を撃ち抜いた。
悲鳴を上げる間もなく、老人が汚水の中に倒れ込む。
「殺せ。一人残らずだ」
ヒットマンたちが銃を構え、奥へと進軍していく。
だが。
【逆襲の闇】
プツン。
地下道に数個だけ点いていた裸電球が、突然すべて消灯した。
完全な暗闇。
「……チッ。配線を切られたか」
氷室が舌打ちをし、懐中電灯を取り出そうとした、その瞬間。
ドガァァンッ!!
地下道の奥から、凄まじい爆発音が轟いた。
先頭を進んでいた二人のヒットマンが、爆風に吹き飛ばされ、火だるまになって悲鳴を上げる。
「ぎゃあああああああッ!!」
「なんだ!? 手榴弾か!?」
混乱するヒットマンたち。
だが、それは手榴弾ではない。
地下に充満していたメタンガスと、彼らが撒いたガソリンを利用し、絶妙なタイミングで着火された【即席の爆弾】だった。
火柱が上がる中、その炎に照らされて、一つの巨大な影が立ち上がった。
【悪鬼】
右手に血まみれの鉄バール。
左手には、奪い取った黒いトカレフ。
右足を引きずりながら、炎の向こうからゆっくりと歩み出てくる白岩虎伯の姿は、まさに地獄から蘇った悪鬼そのものだった。
「……お前ら。また、罪のない人間を殺しに来たのか」
虎伯のドス黒い怒気が、地下道全体を震わせる。
氷室の蛇のような目が、驚愕に見開かれた。
「……貴様、生きていたのか……! 白岩虎伯!」
虎伯は答えず、左手のトカレフを構えた。
パンッ! パンッ!
二発の銃弾が、的確にヒットマンたちの膝を撃ち抜く。
「ぐあッ!」
倒れ込む男たちの間を縫うように、虎伯は足を引きずりながらも驚異的な速度で前傾姿勢のまま突進した。
【剛と理の融合】
かつての虎伯なら、正面から殴りかかっていただろう。
だが今の彼は、バールを松葉杖代わりに地面に突き立て、それを支点にして体を振るうように回転させた。
バールの硬い鉄の先端が、遠心力を伴ってヒットマンの側頭部をフルスイングで打ち砕く。
メシャァッ!!
頭蓋骨が砕け、脳漿を撒き散らしながら男が吹き飛ぶ。
「撃てッ! 撃ち殺せ!!」
氷室が叫び、自らも発砲する。
だが、虎伯は炎と煙の幕を巧みに利用し、暗闇へと溶け込むように姿を消す。
「どこだ……!」
氷室が銃口を振り回した直後、頭上の錆びた配管から、虎伯の巨体が降ってきた。
「なっ……!」
虎伯の丸太のような右腕が、氷室の首に巻き付く。
そのまま全体重をかけて、コンクリートの床に氷室を叩きつけた。
【死神の墜落】
ガァンッ!!
「かはッ……!」
氷室の口から、血が噴き出す。
肋骨が数本折れた嫌な感触。
虎伯は氷室の胸ぐらを掴み上げ、その顔面にバールを突きつけた。
虎伯の目は、完全に人間の理性を捨て去っていた。
「……半年ぶりだな、死神」
「……バケモノめ……」
氷室が血を吐きながら睨み返す。
「龍也に伝えろ」
虎伯の声は、氷のように冷たかった。
「お前の『システム』は、下から崩れ始めてる。……逃げ道はない。俺が必ず、お前をあの海と同じ冷たい地獄に引きずり込んでやるってな」
遠くから、警察のサイレンの音が聞こえ始めていた。
爆発音を聞きつけて、ついに公権力が動き出したのだ。
虎伯は氷室を汚水の中に投げ捨て、闇の奥へと足を引きずりながら消えていった。
残された氷室と数人のヒットマンたちは、燃え盛る炎の中で、かつて自分たちが殺したはずの【亡霊】の恐怖に震えることしかできなかった。
【王の孤立】
同じ夜。
氷室からの惨敗の報告を受けた大澤龍也は、タワーマンションの窓ガラスを、無言のまま右拳で強く殴りつけた。
【亀裂】
ピシッ。
強化ガラスに、クモの巣状のヒビが入る。
龍也の拳から、一筋の血が流れた。
「……生きていたのか。虎伯」
龍也の口から、絞り出すような声が漏れる。
完璧だったはずのシステム。
冷徹に計算し尽くしたはずの自分の世界。
それが、たった一人の、自分が捨てた過去の亡霊によって、根底から破壊されようとしている。
龍也の胸の奥で、五年前に捨てたはずの「人間としての恐怖」が、黒い泥のように湧き上がり始めていた。
2003年、秋の足音が近づく夜。
見えない牙を手に入れた虎。
玉座から引きずり降ろされようとしている龍。
二人の最終戦争は、横浜の街全体を巻き込む、巨大な炎となって燃え上がろうとしていた。
――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。
その絶望の結末まで、あと少し。




