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龍虎の境界 ―第18話:崩壊の足音、血に染まる玉座―

2003年、秋。

大型の台風が横浜に接近し、街全体が黒く重い雨雲に押し潰されようとしていた。

生ぬるい強風が、タワーマンションの窓ガラスを不気味に軋ませている。

相模会本部。

重厚な和室の奥で、灰皿が壁に叩きつけられ、粉々に砕け散った。

「……ふざけるなよ、大澤!!」

【極道の激怒】

相模会幹部、黒田の怒声が部屋を震わせた。

普段の冷徹なエリートヤクザの面影はない。額には青筋が浮かび、目は血走っている。

部屋の中央で、大澤龍也は床に膝をつき、深く頭を下げていた。

その隣には、首と肋骨を固定するコルセットを巻き、車椅子に乗せられた氷室の姿があった。

「たった一人のガキに、地下のシノギを燃やされ、うちの最高戦力である氷室がこのザマだ! お前が『殺した』と報告した男が、なぜ今になって俺たちの首を絞めている!」

黒田が立ち上がり、龍也の顔面を革靴で容赦なく蹴り飛ばした。

ゴッ。

龍也の体が横に崩れ、サングラスが床に飛ぶ。

口の端から血が流れたが、龍也は無言のまま元の姿勢に戻り、再び頭を下げた。

「申し訳ありません。俺の……完全な落ち度です」

「落ち度だと? 相模会のメンツを泥で塗り潰しておいて、それで済むと思っているのか!」

黒田は、龍也の頭を足で踏みつけた。

「……四十八時間だ。明後日の夜明けまでに、その白岩虎伯というガキの首を俺の前に持ってこい。できなければ、お前も、あの桑原という女も、東京湾の底でコンクリ詰めだ。分かったな!」

「……承知しました」

龍也の平坦な声が、薄暗い和室に響いた。

【狂気の覚醒】

一時間後。

関内にある、龍虎会のフロント企業の事務所。

龍也は、洗面所の鏡の前で、口の端の血をハンカチで拭き取っていた。

洗面台の横には、純銀のトカレフと、三つの予備弾倉が並べられている。

「……大澤くん」

背後から、桑原翼が不安げな声で呼びかけた。

いつも余裕に満ちていた女フィクサーの顔に、初めて明確な【死の恐怖】が浮かんでいる。

「黒田さん、本気よ。……私たち、見捨てられたのよ。逃げましょう、大澤くん。今ならまだ……」

「逃げない」

龍也は、冷たい水で顔を洗い、タオルで無造作に拭った。

「逃げても、相模会の暗殺網からは逃れられない。……生き残る方法は一つだ。俺が、俺の手であの亡霊を殺す」

龍也は、トカレフの弾倉に、一発ずつ、冷たい鉛玉を装填していく。

カチャッ、カチャッ。

「大澤くん、相手は化け物よ! 氷室さんでも勝てなかったのに、あんた一人で……!」

「氷室が負けたのは、虎伯の『規格外の暴力』を舐めていたからだ。……だが、俺はあいつを誰よりも知っている」

龍也はスライドを引き、薬室に弾を送り込んだ。

その瞳に宿っているのは、もはや裏社会のビジネスマンとしての冷徹さではない。

15歳の夏、市営住宅の屋上で同級生の指を躊躇なく叩き潰した、あの【純粋な残虐性】が、六年ぶりに完全に目を覚ましていた。

「……鮫島。地下のネズミを拾ってきたか」

龍也が振り返ると、奥の部屋から、鮫島と若い衆が、一人の薄汚れた男を引きずり出してきた。

モグリの闇医者だった。

虎伯の命を繋ぎ止め、地下で匿っていた男だ。

「ひ、ひぃッ! 離せ! 俺は何も知らねえ!」

闇医者が床に放り出され、ガタガタと震える。

龍也はゆっくりと歩み寄り、男の前にしゃがみ込んだ。

【残酷な合理性】

「先生。……白岩虎伯は、今どこに隠れている」

「し、知らねえよ! あのデカいのは、二日前に出て行ったきりだ!」

龍也は、一切の表情を変えず、右手に持ったトカレフの銃口を、闇医者の「右手のひら」に押し当てた。

「嘘をつくたびに、指を一本ずつ飛ばす」

「な……!?」

パンッ!!

サプレッサーを付けていない、鼓膜を破るような生々しい銃声。

そして、闇医者の右手の小指が、根元から弾け飛んだ。

「ぎゃああああああああああッッ!!」

闇医者が絶叫し、血の噴き出す右手を押さえて床を転げ回る。

鮫島や若い衆が、その容赦のない残酷さに息を呑んで後ずさった。

翼でさえ、顔を青ざめて目を逸らす。

「……外科医にとって、指は命だろ」

龍也は、悲鳴を上げる闇医者の髪を掴んで引き上げ、今度は薬指の関節に銃口を合わせた。

「次だ。虎伯はどこだ」

「い、言う! 言うから撃たないでくれぇぇッ!!」

闇医者が涙と鼻水と血を撒き散らしながら絶叫した。

「あいつは……あいつは、『旧・本牧造船所』の廃ドックにいる! そこをアジトにして、相模会の武器庫を襲う計画を練ってたんだ!」

本牧の廃ドック。

それを聞いた瞬間、龍也は男の髪から手を放した。

「……いい情報をありがとう」

龍也は立ち上がり、そのまま闇医者の「左肩」に向けて、無造作に引き金を引いた。

パンッ!

「がはッ……!?」

闇医者が壁に吹き飛び、白目を剥いて気絶する。

「りゅ、龍也さん!? なんで……」

鮫島が震える声で尋ねる。

「……指だけなら、また誰かの命を繋ぐかもしれないからな。俺の敵の怪我を治されないように、両手を完全に使い物にならなくしただけだ」

龍也は、まだ煙を吹くトカレフを懐にしまい、黒いチェスターコートを羽織った。

「鮫島、翼を連れて身を隠せ。……俺が戻るまで、誰も動くな」

龍也は、台風の雨風が吹き荒れる外へと、一人で歩き出した。

【銃を握る怪物】

彼の手には、完全に「人を壊すこと」に特化した冷たい鉄が握られている。

もう、迷いも、かつての友への哀れみもない。

自分が生き残るために、相手の息の根を止める。

それだけが、大澤龍也という男の存在する理由だった。

【泥の中の別れ】

同じ頃。

寿町のモグリの闇医院、その最奥の隔離部屋。

薄暗い豆電球の下で、心電図のモニターが、弱々しい電子音を刻んでいた。

ピッ……ピッ……。

ベッドには、源さんが眠っている。

半年間、一度も意識を戻すことなく、ただ呼吸器に生かされていた。

その枕元に、白岩虎伯が座っていた。

全身傷だらけの革ジャン。

右手には、血に染まった鉄バール。

虎伯は、源さんの骨と皮だけになった分厚い手を、自分の両手で包み込んでいた。

(……源さん)

虎伯の心の中で、かつてこの手で自分の全力の拳を受け止めてくれた、あの日の記憶が蘇る。

「拳は、何かを守るためにあるんだ」

そう教えてくれた、唯一の光。

ピーーーーーーーーーッ。

突然、心電図の音が、一本の連続音に変わった。

【終焉】

源さんの胸の上下運動が止まり、その顔から、最後の微かな赤みが完全に抜け落ちていく。

虎伯は、医者を呼ぼうとはしなかった。

医者はすでに、龍也の手によって連れ去られていることを、虎伯の勘が察知していたからだ。

虎伯は、ただ静かに、源さんの冷たくなっていく手を握り続けていた。

涙は、出なかった。

泣くための感情すら、とうの昔に焼き尽くしてしまった。

「……お疲れ様、源さん」

虎伯は、源さんの胸の上に静かに手を置き、そして立ち上がった。

ベッドの脇に置かれたボストンバッグから、残りのトカレフ二丁と、予備の弾倉を取り出す。

虎伯は、自分の革ジャンの両ポケットに銃を突っ込み、バールを右手に握り直した。

「……俺も、すぐに行くよ」

【最後の戦場へ】

虎伯は、病室の電気を消し、地下の暗闇へと足を引きずりながら歩み出た。

向かうのは、本牧の廃ドック。

相模会の武器庫があると偽の情報を流し、龍也を誘い込むために用意した、巨大な【処刑場】だ。

2003年、秋。

横浜を直撃する猛烈な台風の夜。

冷徹なる狂気で銃を操る龍と。

すべてを失い、復讐の鬼と化した虎。

雨と風がすべてを掻き消す本牧の廃ドックで、二人の男の、後戻りのきかない本当の殺し合いが、いよいよ幕を開ける。

――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。

その答えは、互いの心臓を撃ち抜いた後にしか見つからない。

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