龍虎の境界 ―第19話:本牧廃ドック、暴風雨の死闘―
2003年、秋。
横浜を飲み込む巨大な台風は、夜の帳とともにその牙を完全に剥き出しにしていた。
本牧の外れにある、広大な廃ドック。
かつて巨大な貨物船を建造していた錆びた鉄骨の骨組みが、強風に煽られて不気味な軋み声を上げている。
横殴りの豪雨が、コンクリートの地面を滝のように叩きつけていた。
【死地への歩み】
一台の黒いセダンが、ヘッドライトを消したままドックの入り口に停まった。
運転席から降り立ったのは、大澤龍也だった。
傘はささない。
漆黒のチェスターコートが、一瞬にして雨の重みを吸い込み、体に張り付く。
龍也は、嵐の轟音の中でも一切の表情を変えることなく、コートの懐から純銀のトカレフを引き抜いた。
カチャッ。
雨だれを弾きながらスライドを引き、薬室に弾を送り込む。
そして、そのまま銃を右手に下げ、ドックの最奥、かつて注水されていた巨大な窪地の方へと歩き出した。
視界は最悪だ。
風の音で、足音も聞こえない。
だが、龍也の足に迷いはなかった。あいつは必ず、一番奥の逃げ場のない場所で待っている。
ドックの中央。
錆びたクレーンの残骸が転がる広場に、龍也は立ち止まった。
「……出てこい、虎伯」
龍也の平坦な声は、暴風雨にかき消されそうになる。
だが。
ズッ……ガキン。
ズッ……ガキン。
風の音を切り裂いて、重い金属がコンクリートを叩く音が響いてきた。
【修羅の邂逅】
暗闇の奥。
雨のカーテンを引き裂くようにして、一人の巨漢が姿を現した。
右足を引きずりながら、血に染まった鉄バールを杖代わりに突いて歩く男。
黒い革ジャンは泥と雨で汚れ、丸刈りの頭からは水滴が流れ落ちている。
白岩虎伯だった。
虎伯は、龍也から十メートルの距離で立ち止まった。
その両眼は、もはや人間のそれではない。地獄の底で煮詰められた、純粋な殺意の塊だった。
「……一人で来たか、龍也」
虎伯の低く嗄れた声。
「俺とお前の問題だ。……他人の血で汚す必要はない」
龍也は、右手のトカレフをゆっくりと持ち上げ、虎伯の胸に向けた。
「お前が俺のシステムを壊そうとした。だから俺がお前を消す。……それだけのことだ」
「システムだと……?」
虎伯が、狂気を孕んだ笑い声を上げた。
「お前が必死に守ろうとしてるその『システム』のせいで、源さんは死んだぞ!! 今日、たった一人で冷たくなっていった!!」
虎伯の絶叫が、雷鳴のように響き渡る。
龍也のサングラスの奥の瞳が、わずかに揺れた。
だが、すぐにまた氷のような冷たさを取り戻す。
「……そうか。なら、お前もすぐにその後を追わせてやる」
【開戦】
龍也が引き金を引いた。
パンッ!!
雨音を切り裂く乾いた破裂音。
銃弾は、虎伯の右肩を掠め、革ジャンを弾け飛んだ。
だが、虎伯は痛みに顔を歪めるどころか、バールをかなぐり捨て、革ジャンの両ポケットから同時に黒いトカレフを引き抜いた。
「おおおおおおおッッ!!」
虎伯が咆哮を上げながら、両手の銃を乱射する。
パンッ! パンッ! パンッ!
圧倒的な腕力で反動を殺した、強引な連射。
龍也は素早く横に跳び、錆びた鉄骨の陰に身を隠した。
ガギィンッ! と、龍也のすぐ横の鉄柱に弾丸が着弾し、火花が散る。
「隠れてんじゃねえッ! 龍也ァァッ!!」
虎伯は右足を引きずりながらも、執念の突進で距離を詰めてくる。
彼の射撃は素人だが、その「死を恐れない前進」が、龍也の計算を狂わせていく。
龍也は鉄骨から半身を出し、虎伯の右足の太ももを正確に撃ち抜いた。
【肉を裂く鉛】
ドスッ!
「ぐあッ……!」
虎伯の巨体が大きくよろける。
だが、虎伯は倒れない。
血を流しながら、そのまま前方のコンクリートの残骸に身を滑り込ませた。
静寂。
暴風雨の音だけが、二人の間を隔てている。
龍也は、冷たい雨に打たれながら、銃の残弾を計算した。
あと五発。
「……虎伯。もう終わりだ。お前のその体で、これ以上血を流せばショック死する」
龍也の声が、鉄骨の反響に乗って響く。
「黙れ……」
残骸の陰から、虎伯の荒い息遣いが聞こえる。
「お前が……お前が十五の時、あの屋上で言ったんじゃねえか。……二人で、頂点を見るって」
「昔の話だ。……お前が勝手に光を求めたから、置いていっただけだ」
【決壊】
「光なんて求めてねえよ!! 俺はただ……お前と一緒にいたかっただけだ!!」
虎伯の悲痛な叫びとともに、彼が残骸の陰から飛び出した。
銃は撃たない。
弾が切れたのか、それとも撃つ気がなくなったのか。
虎伯は、残された最後の力を振り絞り、全速力で龍也に向かって突進してきた。
龍也は、冷静に銃口を虎伯の胸に合わせた。
引き金を引けば、確実に終わる。
だが。
(……お前と一緒に、いたかっただけだ)
その言葉が、龍也の脳髄に一瞬の【ノイズ】を走らせた。
機械であるはずのシステムが、十五歳の記憶によってバグを起こしたのだ。
龍也の指が、ほんのコンマ数秒、遅れた。
パンッ!!
放たれた銃弾は、虎伯の心臓を逸れ、左の脇腹を貫通した。
「がああああっ!!」
虎伯は血を吹き出しながらも、止まらなかった。
そのまま龍也の懐に飛び込み、巨大な右拳を、龍也の顔面に向かって全力で振り抜いたのだ。
【砕け散る氷】
メシャァァンッ!!
凄まじい衝撃。
龍也の体は宙に浮き、後方の泥だらけの水たまりに激しく叩きつけられた。
「かはッ……!」
龍也の顔を覆っていた黒いサングラスが粉々に砕け散り、鋭い破片が彼の頬を切り裂く。
六年ぶりに外気に晒された龍也の瞳。
そこには、初めて明確な【痛み】と【驚愕】が浮かんでいた。
龍也は泥水を飲み込みながら、落としたトカレフに手を伸ばそうとする。
だが、虎伯が血まみれの体で龍也の上にのしかかり、その胸ぐらを両手で掴み上げた。
「ハァ……ハァ……!」
虎伯の顔面から滴り落ちる雨水と血が、龍也の顔に降り注ぐ。
「……これで、終わりだ、龍也」
虎伯が、右の拳を高く振り上げた。
次の一撃が顔面に入れば、龍也の頭蓋骨は間違いなく陥没する。
龍也は、砕けた視界の中で、自分に振り下ろされようとしている死の拳を見つめた。
恐怖はなかった。
ただ、どこか安堵に近い、奇妙な感覚が胸に広がっていた。
(……ああ、これでいい。俺の地獄は、ここで終わる)
龍也は、抵抗するのをやめ、目を閉じた。
だが。
【狂気の乱入】
プシュッ!!
風雨の音に紛れるような、微かな消音器の銃声。
直後、虎伯の振り上げた右腕の肩口から、ドス黒い血が噴き出した。
「がはッ……!?」
虎伯の腕の力が抜け、拳が龍也の顔の横の泥水を殴りつける。
龍也が目を開けると、遠くのコンクリートブロックの上に、黒い雨合羽を着た男が立っていた。
手には、暗視スコープのついた狙撃銃。
氷室だった。
「……甘いぞ、大澤」
氷室の冷酷な声が、無線機越しではなく、直接風に乗って届く距離。
「黒田さんから、念のために監視しろと命じられていて正解だった。お前はやはり、このガキに対して致命的な『バグ』を抱えている」
氷室は狙撃銃のボルトを引き、次弾を装填した。
「俺が片付ける。……大澤、お前もろともな」
氷室の銃口が、重なっている虎伯と龍也、二人の真ん中に向けられた。
相模会は、最初から龍也を生かしておくつもりなどなかったのだ。
虎伯を殺させた後、使い捨ての駒として龍也も始末する。それが黒田の描いた本当の絵図だった。
龍也の瞳孔が、極限まで収縮した。
自分は、ただのシステムの一部だと思っていた。
だが、そのシステム自体が、最初から自分をゴミとして処理するようプログラムされていたのだ。
「……逃げろ、龍也」
虎伯が、血まみれの口で呟いた。
自分を撃ち殺そうとした男を、まだ庇おうとしている。
龍也の中で、何かが完全に弾けた。
「……ふざけるな」
龍也は、泥水の中から自らのトカレフを拾い上げ、跳ね起きると同時に氷室に向かって銃口を向けた。
氷室の狙撃銃と、龍也の拳銃。
死の雨が降り注ぐ廃ドックで、三つ巴の地獄の幕が上がる。
――俺ら、何間違えたんだろうなぁ。
間違えていたのは、過去じゃない。
この、息が詰まるような大人たちの【世界そのもの】だ。




