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龍虎の境界 ―第20話:共鳴する弾道、龍虎の反逆―

2003年、秋。

本牧の廃ドックに、絶え間なく打ち付ける暴風雨。

雷鳴と錯覚するほどの轟音が、コンクリートの広場に響き渡った。

パンッ!!

氷室の構えた暗視スコープ付きの狙撃銃から、必殺の一撃が放たれる。

大澤龍也は、泥水の中に身を投げるようにして横へ飛んだ。

コンマ一秒前まで彼の頭部があった空間を、超音速の鉛玉が切り裂き、背後の錆びたクレーンの鉄板を紙のように貫通する。

「チッ……」

氷室が舌打ちをし、ボルトを引いて次弾を装填する。

冷徹な暗殺者は、高台のコンクリートブロックの上から、完全に死角のない射角を確保していた。

龍也は、泥まみれになりながら、近くの巨大な鉄骨の残骸の裏へと転がり込んだ。

そのすぐ横には、脇腹を撃たれ、息も絶え絶えになった白岩虎伯が寄りかかっている。

【袋の鼠】

風雨が吹き荒れる中、鉄骨の裏で二人の男が肩を並べていた。

「……ハァ、ハァ……。龍也、お前、相模会に……切られたのかよ」

虎伯が、血まみれの口元を歪めて皮肉げに笑う。

龍也は、砕け散ったサングラスの代わりに、剥き出しになった漆黒の瞳で自分の持っているトカレフの残弾を確認した。

弾倉には、残り四発。

相手は五十メートル先の高台。視界は最悪。

拳銃の有効射程を完全に超えている上に、少しでも顔を出せば、氷室の狙撃の餌食になる。

「……計算違いだった。黒田は最初から、俺を裏社会の『表の顔』として使い捨てにするつもりだったんだ。汚れ仕事(お前)を処理させた後にな」

龍也の平坦な声には、自嘲の響きがあった。

「へっ……。頭のいいお前が、いいように使われてたってわけか。……滑稽だな」

虎伯が咳き込み、ドス黒い血を吐き出す。

その巨体は、これまでの戦闘と銃創によって、すでに限界をとうに超えていた。

「……虎伯」

龍也は、横に座るかつての相棒を見据えた。

「なぜ、俺に『逃げろ』と言った」

先ほど、氷室の銃口が自分に向けられた時、虎伯は自分を殺そうとした龍也を庇うように叫んだ。

その理由が、龍也の合理的な「システム」の中ではどうしても処理できなかったのだ。

虎伯は、霞みゆく視線で、暴風雨の夜空を見上げた。

「……分かんねえよ。ただ、サングラスが割れた時のあの顔が……十五の時の、あの生意気なガキの顔に見えちまったんだよ。……馬鹿だよな、俺は」

虎伯の言葉に、龍也の胸の奥で、冷たく固まっていた氷が微かな音を立ててひび割れた。

情。絆。

そんなものは、一円の利益も生まない不要なエラーだと思っていた。

だが、そのエラーこそが、今、龍也の中に【人間としての熱】を呼び戻そうとしていた。

パンッ!!

氷室の威嚇射撃が、二人の隠れている鉄骨の端を削り取る。

「……無駄な足掻きだ、大澤。お前たちの弾では俺には届かない」

風に乗って、氷室の冷酷な声が聞こえてくる。

【死線の計算】

龍也は、脳内の思考をフル回転させた。

生き残る確率は、限りなくゼロに近い。

だが、たった一つだけ、氷室の眉間を撃ち抜く方法がある。

「……虎伯。立てるか」

龍也が、低く静かな声で問う。

「あ……? 立てって言われりゃ……立つが」

「俺が氷室を撃つ。距離は五十メートル。風速を計算しても、俺の腕とこの銃じゃ、命中率は一割もない」

龍也はトカレフの撃鉄を起こした。

「だが、氷室の注意が完全に『別の標的』に向き、あいつの動きが完全に止まる【一秒間】があれば、俺は確実に頭を撃ち抜ける」

虎伯は、龍也の言わんとしていることを即座に理解した。

「……俺に、囮になれってか」

「お前が飛び出せば、氷室は確実に撃つ。初弾はかわせ。二発目を装填して狙いをつける、その一秒が勝負だ。……失敗すれば、お前は死ぬ」

かつてのように「お前は俺の盾だ」と命令するのではない。

龍也は、自らの命を預ける対等のパートナーとして、虎伯に【提案】をしていた。

虎伯は、ニヤリと血まみれの歯を見せて笑った。

「……いいぜ。お前のその冷てえ頭脳に、俺の命、ベットしてやるよ」

虎伯が、鉄骨に手をつき、メキメキと音を立てる膝を無理やり伸ばして立ち上がった。

「十五の時と同じだ。……俺が暴れて、お前が仕留める」

龍也も立ち上がり、トカレフを両手でしっかりと構えた。

「行くぞ」

【龍虎の咆哮】

「おおおおおおおおおッッ!!」

虎伯が、鉄骨の裏から暴風雨の中へと飛び出した。

『……バカが。自殺行為だ』

氷室のスコープ越しに、泥を蹴り立てて走る虎伯の巨体が映る。

氷室は冷静にトリガーを引いた。

パンッ!!

弾丸は虎伯の左肩を深々と抉った。

だが、虎伯は倒れない。痛みを怒りで上書きし、雄叫びを上げながら、足元に落ちていた大人の腕ほどの太さがある【鉄パイプ】を拾い上げた。

「死に損ないがッ!!」

氷室がボルトを引き、必殺の二発目を虎伯の心臓に狙い定める。

その瞬間。

虎伯が、持っていた鉄パイプを、やり投げのように氷室の高台に向かって全力で放り投げたのだ。

ブォンッ!!

凄まじい風切り音とともに、鉄パイプが氷室の頭上目掛けて飛んでくる。

「なっ……!」

氷室の冷徹な思考が、ほんの一瞬だけパニックを起こした。

射撃を中断し、飛来する鉄パイプを避けるために上半身をわずかに逸らす。

ガキンッ! とコンクリートを砕く音が響く。

氷室が体勢を立て直し、再びスコープを覗き込もうとした。

虎伯の動きが止まった。

今度こそ、確実に殺せる。

そう確信した氷室の視界の端に。

鉄骨の【反対側】から静かに姿を現した、漆黒のコートの男が映った。

【共鳴する弾道】

大澤龍也だった。

虎伯が飛び出した方向とは完全に逆。

虎伯の咆哮と投擲によって、氷室の意識と視線は完全に右側に釘付けにされていた。

龍也は、雨の中で完璧な射撃姿勢をとっていた。

両手でトカレフを保持し、呼吸を完全に止め、氷室の眉間だけを凝視している。

風雨の音も、雷鳴も、龍也の耳には届いていない。

あるのは、氷室と自分を結ぶ、目に見えない一条の死のラインだけ。

氷室が龍也に銃口を向けようとした、そのコンマ数秒前。

龍也の指が、静かにトリガーを絞り込んだ。

パンッ。パンッ。パンッ。

連続して放たれた三発の銃弾。

一発目は、強風に流され氷室の肩を掠めた。

だが、修正された二発目が、氷室の構えていた狙撃銃のスコープのレンズを見事に粉砕した。

「があッ!?」

砕け散ったガラスの破片が氷室の右目に突き刺さる。

そして、三発目。

龍也の放った最後の鉛玉が、暴風雨を切り裂き、氷室の喉仏を正確に貫通した。

【死神の墜落】

「ご、ぶっ……」

氷室の口から、おびただしい量の鮮血が噴き出す。

相模会最強のヒットマンは、声を発することすらできず、手から狙撃銃を取り落とした。

そして、数メートルあるコンクリートブロックの上から、頭から真っ逆さまに泥水の中へと落下していった。

ドシャァッ……!!

水しぶきが上がり、氷室の体は二度と動かなくなった。

暴風雨の廃ドックに、再び重い静寂が訪れた。

カチャッ、と龍也のトカレフのスライドが後退し、弾切れを知らせる。

龍也は銃を下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。

雨が、彼の顔の血と泥を洗い流していく。

視線の先では、虎伯が仰向けに倒れ込み、大の字になって夜空を見上げていた。

龍也は、無言で虎伯の元へと歩み寄った。

「……ハァ……ハァ……。ざまあみろ……」

虎伯が、泥水をすすりながら、満足げに笑っている。

「お前、本当に無茶苦茶だな」

龍也が、虎伯の横にしゃがみ込む。

「へっ……。お前の計算通りだろ? それに、お前の弾も……昔より随分とまっすぐ飛ぶようになったじゃねえか」

龍也は、虎伯の血に染まった革ジャンを見下ろした。

これ以上放っておけば、本当に失血死する。

龍也は、自分の着ていた高級なチェスターコートを脱ぎ捨てた。

そして、ワイシャツの袖を引きちぎり、虎伯の傷口を強引に縛り上げて止血を始める。

「……い、痛てててッ! おい龍也、手荒いぞ!」

「黙ってろ。……死なれたら、俺の盾がいなくなる」

その言葉に、虎伯が目を丸くし、やがて腹の底から楽しそうに笑い出した。

「ハハハッ! ああ、違いない。お前はやっぱり、最低のクソ野郎だ」

龍也の顔にも、十五歳の夏以来、初めての微かな笑みが浮かんでいた。

【反逆の狼煙】

龍也は虎伯の巨体を担ぎ上げ、泥水の中から引きずり起こした。

「……龍也。これからどうする」

虎伯が、龍也の肩に腕を回しながら問う。

「氷室が死んだ。黒田は、相模会の全戦力を挙げて俺たちを殺しに来る。……横浜中に、俺たちを狙う網が張られるだろう」

龍也の目は、すでに【次の盤上】を見据えていた。

「逃げるか?」

「いや」

龍也は、暗雲の向こうにある横浜の街並みを睨みつけた。

その瞳に宿っているのは、もはやシステムに組み込まれた歯車の冷徹さではない。

システムそのものを破壊する、本物の【龍の怒り】だった。

「……黒田を殺す。相模会を潰す。大人たちが作ったこの腐った盤を、俺たちの手でひっくり返す」

龍也が告げる。

虎伯は、激痛に耐えながらニヤリと笑った。

「上等だ。……俺の拳は、そのためにあるんだからな」

2003年、秋の台風の夜。

一度は殺し合った二人の少年は、大人の巨大な暴力組織をたった二人で壊滅させるという、絶望的で狂気に満ちた【反逆の戦争】へと足を踏み出した。

龍の頭脳と、虎の暴力。

無敵のコンビが、ついに横浜の闇に復活したのだ。

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