龍虎の境界 ―第21話:血塗られた宣戦布告、黒田の狂乱―
2003年、秋。
狂い咲いたような台風が過ぎ去った翌朝。
横浜の空は、嘘のように青く澄み渡っていた。
だが、裏社会の底流では、かつてない規模のドス黒い濁流が渦を巻き始めていた。
【潜伏の朝】
横浜の外れ、廃業した町工場の二階。
かつて龍虎会が発足したばかりの頃、鮫島たちが溜まり場にしていた場所だ。埃とカビの匂いが充満するその空間に、二人の男が息を潜めていた。
「……痛え。もう少し優しく巻けねえのか、龍也」
スプリングの壊れたソファの上で、白岩虎伯が顔をしかめる。
その分厚い上半身には、新しい銃創と打撲の痕が無数に刻まれ、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
大澤龍也は、血で汚れた手を古びたタオルで拭いながら、冷たく言い放った。
「文句を言うな。モグリの医者は俺が使い物にならなくしたからな。……素人の応急処置で我慢しろ」
龍也自身も、泥と血にまみれ、顔にはガラスの破片で切った無数の傷が走っている。
だが、その漆黒の瞳には、かつての「システムに縛られた機械」のような虚無感はない。
底光りするような、研ぎ澄まされた【生気】が宿っていた。
「……で? これからどうやって、あの巨大な相模会をぶっ潰すつもりだ。俺とお前の二人だけでよ」
虎伯が、転がっていた缶コーヒーを不器用に開けながら問う。
龍也は、テーブルの上に広げた横浜の地図を見下ろした。
そこには、相模会のフロント企業、資金洗浄の拠点、幹部の愛人のマンションに至るまで、赤ペンでびっしりと印が書き込まれている。
「正面からぶつかれば、一時間で蜂の巣だ。……だが、俺は奴らの『血管』がどこを通っているか、すべて知っている」
龍也が、地図上の赤い印を指でなぞる。
「相模会を動かしているのは、黒田の集める圧倒的な資金力だ。……その金の流れを、俺が全部止める。そして、黒田を組織の中で完全に孤立させる」
「……なるほどな。お前の悪い頭脳の出番ってわけだ」
虎伯がニヤリと笑う。
「俺は、その『血管』を物理的にぶっ壊せばいいんだな?」
「ああ。だがその前に……奴らに、俺たちが生きていることを教えてやらなきゃならない」
龍也は立ち上がり、足元に置いてあった黒いボストンバッグのジッパーを開けた。
【血塗られた配達物】
同日の正午。
関内にある、黒田が定宿としている高級料亭『松風』。
黒田は、苛立ちを隠せない様子で、床の間の前を貧乏ゆすりをしながら歩き回っていた。
「……氷室とは、まだ連絡がつかないのか」
「は、はい……。昨夜から、携帯の電源が切られたままで……」
若い衆が、青ざめた顔で報告する。
「チッ……。あのガキ一人殺すのに、どんだけ手間取ってんだ」
その時、料亭の仲居が、青ざめた顔で座敷に入ってきた。
「く、黒田様……。表に、黒田様宛ての荷物が……」
「荷物だあ? 誰からだ」
「それが……送り主の名前はなく、ただ『大澤』とだけ……」
その名前を聞いた瞬間、黒田の動きがピタリと止まった。
若い衆が慌てて表へ飛び出し、大きな桐の箱を抱えて戻ってくる。
「開けろ」
黒田の命令で、若い衆が恐る恐る桐の箱の蓋を開けた。
【宣戦布告】
「ひぃッ……!!」
箱の中身を見た若い衆が、腰を抜かして尻餅をついた。
黒田が箱の中を覗き込む。
その顔から、一瞬にして血の気が引いた。
箱の中に綺麗に並べられていたのは、粉々に砕け散った【狙撃銃のスコープの残骸】。
そして、血で赤黒く染まった【氷室の黒いネクタイ】だった。
さらに、その上には、一枚のフロッピーディスクと、白い便箋が添えられている。
黒田は震える手で便箋を取り出し、そこに書かれた文字を読んだ。
『システムは終了した。次は、あんたの首を取りに行く。――大澤龍也、白岩虎伯』
そして、同封されていたフロッピーディスクのラベルには、「黒田幹部・裏金横領記録」と書かれていた。
相模会の本部に知られれば、黒田自身が破門、あるいは暗殺される決定的な証拠。
龍也は、自分が管理していた黒田の資金操作のすべてを、武器として突きつけてきたのだ。
「……あ、ああ……」
黒田の口から、ヒューという奇妙な空気が漏れた。
氷室が殺された。
そして、自分が飼い慣らしていたはずの「賢い犬」が、自分の最も恐れる弱点を握り、牙を剥いてきたのだ。
【狂乱】
「……大澤ァァァァァァッッ!!!」
黒田の絶叫が、料亭の座敷に響き渡った。
彼は狂ったように桐の箱を蹴り飛ばし、血まみれのネクタイが畳の上に転がる。
「探せ!! 横浜中をひっくり返してでも、あの二匹のガキを見つけ出せ!!」
黒田が、若い衆の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす。
「大澤に関わっていた奴は全員捕まえろ! 拷問してでも居場所を吐かせろ! 殺せ! 殺して俺の前に首を持ってこい!!」
恐怖と保身から来る、完全に理性を失った狂乱。
黒田の命令により、横浜中の相模会組員、数百名が、一斉に龍也と虎伯の捜索へと動き出した。
街全体が、巨大な暴力の網で覆い尽くされようとしていた。
【女フィクサーの決断】
同じ頃。
タワーマンションの自室で、桑原翼は、窓から横浜の街を見下ろしていた。
テーブルの上には、龍也から届いた短いメールの画面が開かれたままの携帯電話が置かれている。
『俺たちは、この盤をひっくり返す。生き残りたければ、相模会から手を引いて身を隠せ』
翼は、ため息をつきながら、手元のワイングラスを傾けた。
「……馬鹿な男。せっかく築き上げた地位を、あんな金髪の不良一人のために捨てるなんて」
翼のシステムは、龍也という完璧な歯車があってこそ機能していた。
彼が反逆を起こせば、翼自身も相模会から「裏切り者の仲間」として消される可能性がある。
その時、部屋のインターホンが乱暴に鳴り響いた。
モニターには、相模会のチンピラたちが数人、バールや拳銃を持って立っているのが映っている。
早くも、黒田の「狩り」が始まったのだ。
「……仕方ないわね」
翼はワインを飲み干し、クローゼットの奥から、現金が詰まったアタッシュケースと、パスポート、そして護身用の小型拳銃を取り出した。
「大澤くん。……あんたのその狂った戦争、最後まで特等席で見物させてもらうわよ」
翼は、非常階段を使ってタワーマンションを脱出し、裏社会の闇の中へと姿を消した。
【ゲリラ戦の幕開け】
その夜。
相模会の資金源の一つである、関内の巨大な違法カジノ。
黒田の直系である武闘派の組員たちが、目を光らせて警備にあたっていた。
「大澤と白岩が来たら、問答無用でハチの巣にしろ」
幹部が指示を出した、その直後。
カジノの裏口の分厚い鉄扉が、小型のプラスチック爆弾によって吹き飛ばされた。
ドガァァンッ!!
「な、なんだッ!?」
土煙と火災報知器のベルが鳴り響く中。
両手に黒いトカレフを構えた大澤龍也と。
巨大な鉄のハンマーを肩に担いだ白岩虎伯が、炎を背にして悠然と姿を現した。
「……さて。掃除の時間だ」
龍也の冷たい宣告とともに。
パンッ! パンッ!
的確に組員の足を撃ち抜く龍也の射撃と。
「オラァッ!!」
轟音とともに、カジノの設備とヤクザたちを次々と粉砕していく虎伯のハンマー。
横浜の闇を支配する巨大組織と、たった二人の「龍と虎」。
一切の退路を断った、絶望的で壮絶なゲリラ戦が、ついに火蓋を切った。
――大人の作ったルールは、俺たちが全部壊す。
血に染まった二人の少年の狂気は、横浜の夜をどこまでも赤く染め上げていく。




